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一ノ谷の戦い古戦場

源義経

源義経

1184年(寿永3年)2月4日、源頼朝の命により、源義経が10,000、「源範頼」(みなもとののりより)が56,000の軍勢を率いて、京都から福原へと出陣します。源氏軍は2軍に分かれ、源義経軍は丹波路を、源範頼軍は西国街道を進み、2月5日、摂津国に到着。

一方、平氏軍は、摂津と播磨の境にある「一ノ谷」に集結していました。平氏が陣営を構えた一ノ谷は、前面に海、背後には絶壁の崖が迫り、東側は陣営、西側は細い道が1本通っているだけの閉鎖的な地形だったことから、防御に絶対的な自信を持っていたのです。

しかし、合戦の前日、平氏軍のもとに後白河法皇の使者が訪れ、後白河法皇から和平勧告が出たことが伝えられると、これを信じた平氏軍は油断してしまいます。

摂津国に到着していた源範頼軍は、「生田の森」(現在の兵庫県神戸市にある生田神社の後方の森)へ南下した一方、源義経軍は、2月7日早朝、精兵70名ほどの騎馬隊を引き連れて一ノ谷の裏山である「鵯越」に陣を構え、ついに一ノ谷の戦いが開戦します。

戦いが始まったものの、源氏軍は、堅固な陣を敷く平氏軍をなかなか攻め落とせずにいました。そこで源義経は、地元の猟師から聞いた「鹿も四つ足、馬も四つ足」という言葉とともに、ヒヨドリしか降りられないような絶壁を騎馬で駆け下り、平氏軍の背後から急襲を仕掛けます。これが有名な「鵯越の逆落とし」です。

予想もしていなかった方向から攻撃を受けた平氏軍は大混乱に陥ります。その混乱に乗じて源氏軍は火を放ち、海側に逃げ惑う平氏軍に対し、源範頼はここぞとばかりに総攻撃を命じます。この状況を見た平氏軍の総大将だった「平宗盛」(たいらのむねもり)は敗戦を悟り、安徳天皇や「建礼門院」(安徳天皇の母、また平清盛の娘)らを連れ、屋島へと逃れました。

この一ノ谷の戦いで平氏軍は敗戦。その後の1185年(寿永4年/元暦2年)の「屋島の戦い」、平氏滅亡となる「壇ノ浦の戦い」へと続いていくこととなるのです。

壇ノ浦の戦い
武将達が戦った壇ノ浦の戦いの古戦場をご紹介!