桶狭間の戦い古戦場
「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)は、1560年(永禄3年)に尾張国(現在の愛知県)の桶狭間で、尾張国主「織田信長」と、駿河・遠江・三河を領国する「今川義元」との間で起こった合戦です。この合戦で、兵士の数では圧倒的に劣勢だった織田信長が勝利。「甲相駿三国同盟」の一角だった今川義元が討死したことで、戦国大名のパワーバランスが大きく変化。織田信長は、この戦いの勝利で天下取りへと躍進するきっかけをつかみました。かつて桶狭間の戦いが繰り広げられた愛知県名古屋市の古戦場「桶狭間古戦場公園」をご紹介します。
桶狭間の戦いの概要
海道の弓取り今川義元
今川義元
今川義元は、今川家11代当主。駿府国(現在の静岡県)を本拠とし、駿河・遠江・三河を領国。すべての領地を合わせると100万石に達していました。「海道の弓取り=東海道一の武将」と呼ばれ、今川家最盛期を築いた戦国大名です。
また、甲斐国(現在の山梨県)の「武田氏」、相模国(現在の神奈川県)の「後北条氏」とで「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)を結び、一大勢力を形成。尾張へ領地を拡大していきたい今川義元にとって、この同盟があることで背後から急襲される心配がない盤石な状況を作り出していました。
今川義元が西三河の領地を巡り、織田信長の父「織田信秀」との抗争を続ける中、1551年(天文20年)、織田信秀が病没。加えて長男・織田信長と、弟「織田信勝」の間で内紛が勃発します。今川義元は尾張国を手に入れる絶好のチャンス到来と攻撃に出ます。
今川軍による尾張国への侵攻
今川義元の油断
織田信長
27歳の若き織田信長も黙って侵攻されるわけにはいきません。
「丸根砦」、「鷲津砦」の2つの砦を築いて、今川義元が奪い取った大高城を孤立させる作戦を取ります。大高城を孤立させれば、今川軍の兵糧補給ルートを断つことができ、進撃を食い止めることができます。
これに対し、今川軍は、織田信長が築いた丸根砦、鷲津砦への攻撃を開始します。
今川義元は、丸根砦、鷲津砦への攻撃に、「松平元康」(のちの徳川家康)と「朝比奈康朝」(あさひなやすとも)を起用。兵力差に加えて、松平元康と朝比奈康朝の士気も優れていたことから、早い段階で両砦は陥落します。今川義元がこれに気を良くしたことが、油断を生んでしまったのかもしれません。今川軍は進軍を一時的に止め、桶狭間北方の田楽狭間で休息を取り始めました。
織田信長による奇襲
熱田神宮
一方の織田信長は、5月19日の早朝3時、今川軍の松平元康と朝比奈康朝が、丸根砦、鷲津砦へと攻撃を開始したことを聞いて飛び起きます。優雅に「敦盛」(幸若舞)を舞ったあと、早朝4時に「清洲城」を出発。8時に「熱田神宮」で戦勝祈願を行ない、10時までに3,000の兵を整えたと言われています。
織田信長は、熱田神宮において、住民達に白い布で旗指を作らせ、まるで織田軍が熱田神宮にとどまっているかのような策略を設けます。
そして13時頃、視界を遮るほどの豪雨が降る中、織田軍は沓掛城から進んで大高城へと通じる、三面起伏の迫る「桶狭間」で休憩していた今川軍の本陣を奇襲。少数とは言え、いきなり敵軍が背後に現われたことで、今川軍は対応に手間取られます。どれだけ軍勢を用意しようとも、今川義元が孤立してしまえば、数の優位は意味がありません。今川義元が討ち取られたことで、今川軍は総崩れとなります。
桶狭間の戦いは、織田軍が攻め込んでわずか2時間ほどで勝敗を決しました。織田軍は大将を討ち取ったとは言え、敵軍勢の数ははるかに多かったため、追撃をせず即座に本拠地である清洲城へと戻りました。今川の25,000の大軍に、わずか3,000の兵の織田軍が勝ったのです。これによって、織田信長は「東海道一の武将」というタイトルと、今川義元愛刀の「左文字」を入手。織田信長の勢力は急速に拡大していきました。
桶狭間の戦いの古戦場
「信長公記」によると、桶狭間の戦いが行なわれたのは、「おけはざまやま」。休憩していた今川軍を、織田軍が奇襲したと書かれています。しかし実は、織田信長が桶狭間を戦いの場所に選び、今川軍を誘き寄せたとも言われています。
なぜなら織田信長は、中国の兵法「呉子」(ごし)を熟知。「千の力で万の敵を討つ最善の策は、狭い谷間で戦うこと」という戦法を知っていました。織田信長は、地元の地形を知り尽くし、桶狭間こそがまさに狭い谷間だと分かっていたのです。
そんな桶狭間の戦いの戦場跡については、現在2ヵ所で意見が分かれています。ひとつは、愛知県名古屋市緑区にある「桶狭間古戦場公園」。もうひとつは、愛知県豊明市にある「桶狭間古戦場伝説地」です。
桶狭間古戦場公園
織田信長、今川義元の銅像
桶狭間古戦場公園は、合戦から450年後の2010年(平成22年)に整備。「織田信長、今川義元の銅像」や「今川義元の墓碑」があります。
その他にも、泉の中に桶がくるくると回っている「義元首洗いの泉」や、今川義元が愛馬をつないだとされる「馬つなぎの社松」なども一見の価値があります。
2019年(令和元年)3月、桶狭間古戦場観光案内所がオープンしています。桶狭間の戦いに関するパネル展示、史跡ガイドの取り次ぎも可能。甲冑の試着体験もできるので、一層楽しみが増えています。
桶狭間古戦場伝説地
桶狭間古戦場伝説地・七石表
桶狭間古戦場伝説地は、国指定史跡。敷地内には、今川義元はじめ7人の戦死場所を示す「七石表」があり、「今川義元の墓」や桶狭間の戦いにまつわるたくさんの石碑が見られます。
特におすすめは、「桶狭弔古碑」(おけはざまとぶらいのこひ)。今川義元の重臣であった「松井宗信」の子孫が建てたとされている碑です。桶狭間の戦いにおける、織田信長の奇襲、そして今川義元の討ち死になどの顛末が刻まれています。
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