屋島の戦い古戦場
「屋島の戦い」(やしまのたたかい)は、平安時代後期に勃発した「源平合戦」のうち、1185年(文治元年)に、讃岐国屋島(現在の香川県高松市)で行なわれた合戦です。度重なる敗戦によって平家一門は都落ちし、西国へと逃げ延びましたが、「三種の神器」を奪われたままであった源氏はこれを追撃。平氏を討つために水軍を得た「源義経」は、平氏の拠点である屋島を目指しました。かつて屋島の戦いが繰り広げられた香川県高松市の古戦場「屋島山上展望台」をご紹介します。
屋島の戦いの概要
屋島の戦いが起こった背景
平清盛
平安時代後期、平氏、源氏をはじめとする武家が台頭し始め、「保元・平治の乱」で勝利した平氏の棟梁「平清盛」は、政権で大きな発言権を得るようになりました。
1167年(仁安2年)には、武士として初めて「太政大臣」の地位に就任。日宋貿易を再開させ、皇族と平氏の間に血縁関係を作る等、平清盛の勢力は増長していきましたが、この大きすぎる権力に危機感を抱いた、「後白河法皇」をはじめとする院政勢力は、平清盛を失脚させようと画策します。
しかし、この策略は見破られ、後白河法皇は平氏によって幽閉されることとなりました。代わりに、平清盛は自身の血を引く「安徳天皇」を擁立し、平氏の地位を揺るぎのないものへと変えたのです。
1180年(治承4年)、後白河法皇の第3皇子「以仁王」(もちひとおう)は、父と自らの処遇に怒り、ついに平氏討伐の令旨を発布。これにより、「源頼朝」率いる源氏一門が挙兵し、「源平合戦」へと発展していきます。はじめは優勢であった平氏軍でしたが、1180年(治承4年)の「富士川の戦い」を境に、徐々に形勢が反転していきます。
1181年(養和元年)に平清盛が病没すると、平清盛の三男「平宗盛」(たいらのむねもり)が平氏棟梁となりますが、1183年(寿永2年)の「倶利伽羅峠の戦い」で、「木曽義仲」(きそよしなか:源義仲)に大敗。大軍を失った平家一門は、幼い安徳天皇を連れ、西国へと都落ちをしました。
平氏は、都落ちをする際に、安徳天皇と共に天皇家の宝物である「三種の神器」を奉じて逃れたため、後白河法皇は平氏追討の院宣を発布。平氏は、日宋貿易における拠点となっていた瀬戸内海で体制を整え、勢力を拡大しますが、1184年(寿永3年)、「一ノ谷の戦い」において、「源義経」に敗退し、讃岐国の屋島へと逃れていきました。
屋島の戦い
屋島の戦い
平氏軍は屋島に内裏を設置し、長門国彦島(現在の山口県下関市彦島)を拠点に有力な水軍を擁して、瀬戸内海の制海権を依然として掌握。
源氏軍はこのまま勢いに乗り、屋島へ攻め込もうとしましたが、本格的な水軍を持たなかったため、足止めを食らいます。
1185年(文治元年)、源義経は一ノ谷の戦いののち、一時京の護衛に任命されていましたが、源氏軍の苦境を知ると、西国へ出立。
源義経は、摂津水軍、熊野水軍、伊予水軍を次々と味方に引き入れ、諸将が出立を見合わせる暴風雨の中、船頭を脅して少数の軍での出陣を強行したのです。
源義経
源氏の船団は、通常3日かかる航路を、数時間で到着。源義経は、現地の武士を味方に付け、屋島へと攻め込みました。
源氏軍は、少数の兵であることを悟らせないように、周辺の民家に火を点け、大軍であるかのように見せかけます。
当時、屋島は独立した島であったため、平氏は海上からの攻撃を想定しており、源義経の奇襲に大きく狼狽。源義経は、干潮時に騎馬で島へと渡れることに目を付け、背後から奇襲を仕掛けたのです。
はじめは慌てていたものの、源氏側の兵力が少ないことに気が付いた平氏軍は、船を戻して大量の弓兵で応戦。源義経の身も危なくなりますが、家臣に助けられ一命を取り留めました。戦いは膠着状態となり、両軍に疲労が見えたため、一時休戦となります。
那須与一の扇の的
休戦中、平氏軍の船中から女性が現れ、竿の先に括り付けた扇を射てと源氏を挑発。
これを辞退しては源氏の名折れと考えた源義経は、現地にいた家臣のなかでも、随一の弓の名手であった「那須与一」(なすのよいち)に扇の的を射るように命じます。
那須与一は、失敗すれば自害を覚悟したうえで、武家の神、地元と日本の神仏に祈りを捧げると、見事に扇の的を射落としたのです。
この弓の腕前に平氏も感嘆し、舞を踊りはじめる者もいました。しかし、那須与一は源義経の命を受け、舞い始めた平氏軍を射殺。このことが合図となり、合戦が再開されました。
源氏の軍勢は、少数ながらも膠着状態を維持し続け、源氏の大将「梶原景時」(かじわらかげとき)が攻めてきたことにより、平氏軍を挟み撃ちする形で勝利。平氏軍は屋島から撤退したものの、すでに「源範頼」(みなもとののりより)が九州を押さえていたことから、彦島に孤立させられることとなり、「壇ノ浦の戦い」において、滅亡することとなりました。
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屋島の戦いの古戦場
「屋島の戦い」の舞台となった屋島の古戦場は、瀬戸内海に面した香川県高松市にあります。当時は、文字通り海に囲まれた島でしたが、現在は陸続きになっているため、車などでも簡単にアクセスが可能。この「源平屋島古戦場」には、屋島山上展望台があり、そこから古戦場を一望することができます。
屋島寺の血の池
古戦場のそばには四国八十八ヶ所のひとつである「屋島寺」があり、その東側には、屋島の戦いにゆかりがある「血の池」と呼ばれる小さな池が存在。
血の池という名称は、屋島の戦いで勝利をした、源義経率いる源氏軍が、血の付いた刀剣をこの小さな池で洗い、水が赤く染まったという逸話が由来となっています。
屋島の戦いに勝った源氏が、勝どきを上げる際に陣笠を投げたという伝説から、「獅子の霊巌」(ししのれいがん)では、「かわらけ投げ」(高い場所から厄除けなどの願いをかけて素焼きの皿を投げる遊び)が楽しめる展望台もあり必見です。なお、獅子の霊巌という名前の由来は、展望台下の岩が獅子のように見え、まるでそれが海に向かって吠えているかのように見えることから名付けられました。
源平屋島古戦場から車で約15分移動をすると、壇ノ浦の戦いにおいて、わずか6歳で崩御した安徳天皇を祀った、「安徳天皇社」(あんとくてんのうしゃ)があります。そこから徒歩圏内には、屋島の戦いの折に、源義経の身代わりで討たれたとされる「佐藤継信の碑」(さとうつぐのぶのひ)も存在。
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