下剋上
下剋上は戦国時代の象徴
上下関係を崩してのし上がる
権威に対する反骨心
南北朝時代に流行した「婆娑羅」(ばさら)も下剋上の一種とされます。婆娑羅とは公家や天皇といった権威を嘲笑し、奇抜で華美な服装や派手な振る舞いをすること。大名の中にも傍若無人(ぼうじゃくぶじん:人目をはばからず勝手に振る舞うこと)で婆娑羅的な言動をする者が現れ、婆娑羅が原因で国が乱れると指摘する書物もありました。しかも、こうした婆娑羅大名達は戦にも強かったとされます。
1334年(建武元年)に書かれた「二条河原落書」(にじょうかわらのらくしょ)には「下剋上する成出者」(げこくじょうするなりでもの)という言葉があり、すでに室町時代の初期には身分が低くても実力で成り上がる者がいたことがうかがえます。室町幕府初代将軍の「足利尊氏」(あしかがたかうじ)もこの風潮を見過ごすことができず、1336年(建武3年)に制定した「建武式目」(けんむしきもく)の中で、早くも婆娑羅の禁止を発表しています。
群雄割拠の時代
主を追放後、息子に討ち取られる
斎藤道三
室町時代初期の下剋上は、浄土真宗の信者が守護大名の支配に反抗する「一向一揆」(いっこういっき)や、一族の中で分家が本家を乗っ取るといったケースが一般的でした。しかし室町時代の後半、戦国時代における下剋上では、家臣が主君を排除するパターンが多くなっています。その典型とされるのが、斎藤道三です。
斎藤道三は美濃(みの:現在の岐阜県南部)の守護大名である土岐(とき)氏に親子二代にわたって仕えました。
しかし土岐氏の家督争い(かとくあらそい:家の相続権をめぐる争い)に乗じて、1542年(天文11年)に主君である「土岐頼芸」(ときよりあき)を追放。戦国大名として美濃を手に入れました。ところが、その栄華も長く続きません。
斎藤道三は1554年(天文23年)に斎藤家を長男の「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)に譲って隠居しますが、わずか2年後に斎藤義龍に討ち取られてしまいました。原因は、引退後も斎藤道三が政治に対して影響力を持ち続けたためだと言われます。
室町幕府を滅亡に追いやる
織田信長
室町幕府・将軍家に対する下剋上を成し遂げたのが織田信長です。1552年(天文21年)に父「織田信秀」(おだのぶひで)の跡を継ぎ、尾張(おわり:現在の愛知県西部)統一に着手。
当初はうつけ者(間抜け)として評判の悪かった織田信長でしたが、1560年(永禄3年)に、隣国・駿河(するが:現在の静岡県)の有力大名「今川義元」(いまがわよしもと)を「桶狭間」(おけはざま:愛知県名古屋市と豊明市にまたがる地域)で討ち取ったことで、一気に武名を周辺国にとどろかせました。
さらに織田信長は、1568年(永禄11年)、越前(えちぜん:現在の福井県北部)に落ちのびていた「足利義昭」(あしかがよしあき)とともに上洛(じょうらく:京都へのぼること)し、足利義昭を室町幕府15代将軍に就任させます。足利義昭は室町幕府の権威回復をめざしますが、織田信長は自分が主君となっての天下取りを画策したため、やがて2人は対立。足利義昭は甲斐(かい:現在の山梨県)の「武田信玄」(たけだしんげん)ら戦国大名達に声をかけ、織田信長包囲網を作ります。
しかし、その最中に武田信玄が病死。織田信長の兵力に降伏した足利義昭は京都から追放されました。1573年(天正元年)、約240年続いた室町幕府は名実ともに滅び、織田信長の天下統一が始まります。
敵は本能寺にあり
明智光秀
1579年(天正7年)、織田信長は近江(おうみ:現在の滋賀県)の安土に豪華な居城を構えます。すでに強敵達は力を弱め、天下統一の妨げになっているのは中国地方の毛利氏(もうりし)だけ。
1582年(天正10年)5月、織田信長は毛利氏を攻めていた家臣の「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉)から援軍の依頼を受けると、家臣のひとり、明智光秀に羽柴秀吉の援軍を命じ、自らも安土城を出て京都の本能寺(ほんのうじ)で待機していました。
ところが中国地方に向かうはずの明智光秀が突然反旗を翻して本能寺を襲撃。織田信長自身も槍や弓を手に迎え撃ちましたが、完全に包囲されたことを悟り、自ら火を放って自害。享年49。この「本能寺の変」により織田政権は崩壊します。
次々と入れ替わる勢力図
明智光秀の謀反の理由は、明智光秀にも天下取りの野望があった、織田信長の横暴な振る舞いに恨みを募らせた、など諸説ありますが、本当のことは分かっていません。理由はどうであれ、明智光秀の謀反は現在でも日本史上最大の下剋上として語り継がれています。
しかし、この下剋上は長続きしませんでした。中国地方で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉が、わずか10日あまりで京都へ引き返してきたのです。仇である明智光秀を討てば、一気に織田信長の後継者争いのトップになれると考えた羽柴秀吉は「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)で明智光秀軍を討ち、織田信長に代わって天下人へと上り詰めていきました。
この羽柴秀吉も、もともと貧しい農民の出身。その意味では羽柴秀吉も下剋上の主人公のひとりだと言えます。時代の変革期に頻発した下剋上とは、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ:多くの英雄達が各地で勢力を競うこと)の戦国時代の必然であり、既存の身分社会への抵抗でもあったのです。