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宗三左文字

打刀(うちがたな)は、「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりである筑前(現在の福岡県)の刀工「左文字」(さもんじ)作の打刀です。名前の由来は、室町幕府管領細川晴元(ほそかわはるもと)の側近である三好政長(みよしまさなが)が所持していたため、三好政長の法名「宗三」(そうざん)から付けられました。またの名を「三好左文字」とも呼ばれます。

本打刀は、三好政長から甲斐(現在の山梨県)の戦国武将武田信玄(たけだしんげん)に贈られ、のちに駿河国(現在の静岡県)の今川義元(いまがわよしもと)に渡りました。今川義元は本打刀を愛刀として大切にし、織田信長に「桶狭間の戦い」で討ち取られた際にも、本打刀を差していました。織田信長は本打刀を気に入り、「金象嵌」(きんぞうがん)で表に「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」裏に「織田尾張守信長」と刻印し、いつも身に付けていたと言われます。「本能寺の変」で明智光秀(あけちみつひで)に攻撃された際にも、本打刀を差していたのです。そのことから、本打刀は「義元左文字」とも「信長左文字」とも呼ばれます。

本能寺の変で焼けて再刃(さいば/さいは)されたとも言われ、豊臣秀吉の手に渡ったあと、徳川将軍家へ。徳川家康もお気に入りとして愛用し、徳川将軍家の重宝として、受け継がれていきました。1657年(明暦3年)、明暦の大火にて再度焼け、再刃されたため、現在の「宗三左文字」には「左文字」の特徴は残っていないとも言われます。

明治維新後に織田信長を祭った「建勲神社」(たけいさおじんじゃ)に、織田信長ゆかりの刀剣として、徳川家より寄贈されました。義元左文字の名で重要文化財指定。