大政奉還/徳川慶喜
大政奉還とその背景
黒船来航
黒船来航
大政奉還に至る大きなきっかけとして「黒船来航」が挙げられます。1853年(嘉永6年)、浦賀(現在の神奈川県横須賀市)にアメリカ東インド艦隊司令長官「ペリー」率いる軍艦4隻が、捕鯨船の寄港地確保とアジアへの勢力拡大を目的として来航しました。
久里浜(現在の神奈川県横須賀市)に上陸してアメリカ大統領の国書を幕府に提出し、開国を迫ったのです。当時、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)は病気療養中であったため、決定までに1年の猶予を依頼します。
一度は日本を去った艦隊でしたが、香港に滞在していたペリーは、ほどなくして将軍徳川家慶が亡くなったことを知り、1年もしないうちに再び来航したのです。ペリーが早めに日本に戻り交渉を急いだ理由は、将軍が亡くなって混乱した時期を利用して、有利に交渉を進めるためだったと言われています。
「日米和親条約」と「日米修好通商条約」の締結
ペリーは日本に到着すると、幕府に対して再度条約の締結と開国を要求。条約の内容は、開港や食料の提供など日本にとって不平等な内容となっていましたが、当時の老中「阿部正弘」(あべまさひろ)は、アメリカとの戦争を回避するため「日米和親条約」を締結。
これにより、下田(現在の静岡県)と箱館(現在の北海道函館市)の港が開港され、200年以上続いた鎖国は終わりを迎えたのです。1858年(安政5年)に再来日したアメリカ政府は、通商条約として、さらに横浜、長崎を含む6港の開港、貿易の自由、アメリカ側の領事裁判権の承認、日本の関税自主権の放棄などを要求。
当時の大老「井伊直弼」(いいなおすけ)は天皇の許可が下りるまで待つつもりでしたが、諸外国の脅威を恐れた幕閣達により、天皇の許可がないままに「日米修好通商条約」は締結されることとなったのです。日米修好通商条約の内容も、日米和親条約と同様に日本にとって不平等な内容の条約となり、アメリカに続き、ロシアやイギリス、フランスなどの海外列強とも同様の条約を締結することとなりました。
開国による品不足と物価の上昇が生じたことや、不平等条約によって日本の主権を脅かされたことにより、民衆は幕府に対する不満を高めていき、幕末の動乱へと発展していったのです。
尊王攘夷運動
坂本龍馬
日本ではアメリカによる開国以前にも、ロシアやイギリスなどの列強諸国により開国を迫られていました。当時の日本では、その外敵に対抗し、排除しようとする「攘夷」の機運が下級武士を中心として上昇。
このことから、天皇の勅許なく開国を選択した幕府に対し、民衆の不満も増幅していきました。外敵を排除しようとする攘夷運動が、天皇を敬う尊王運動とあわさり、尊王攘夷運動へと発展。さらに、その機運は信用をなくした幕府へと向き、長州藩(現在の山口県)を中心とした倒幕運動へと発展していったのです。
しかし幕府側も傾いた幕政を看過せず、薩摩藩(現在の鹿児島県)を中心とした雄藩により、天皇と幕府の結びつきを強める「公武合体運動」を推し進めていきます。この運動は、「雄藩連合権」という新しい政権の形を望む薩摩藩の思惑があってのことでした。
しかし、14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が上洛し、「孝明天皇」より、将軍に政治を委任するという宣旨が下されたことで、薩摩藩は激怒。土佐藩(現在の高知県)の藩士「坂本龍馬」らの仲介により、本来敵であった長州藩と結ぶこととなったのです。
大政奉還へ
大政奉還が行われた目的
徳川家存続のため
徳川慶喜
大政奉還の目的は、表向きは天皇を中心とした政治に戻すことでしたが、幕府側には徳川家の存続という目的も有していました。
大政奉還が実現される直前、「岩倉具視」(いわくらともみ)ら倒幕派は「明治天皇」より倒幕の密勅を受け取っており、それを知った土佐藩が徳川慶喜へ政権の返上を勧めたとされます。
なお、朝廷は平安時代末期に武家政権に移行して以来実権を握っていなかったため、朝廷には政治を動かす力はありません。徳川家は莫大な財産や領地を保持していたため、徳川慶喜は天皇に政権を返上したとしても、新政府内で引き続き主導権を握ることも可能となるのです。
また開国後に、幕府が積極的にヨーロッパへ送った遣欧使節が学んできた「立憲君主制」や「議会」を、日本でも実現させるために、朝廷の下に武家による議会を設立しその中心になるという構想もあったとされます。
しかしこの構想は、明治天皇により、君主政体に即した政治転換を指す「王政復古の大号令」が発せられたため、白紙となりました。
外国からの支配を逃れるため
多くの民衆が徳川幕府に不満や不信感を募らせており、国内の情勢が不安定で混乱していた当時、日本と通商条約を結んだ列強諸国は、この機に日本を植民地支配しようと計画します。江戸幕府は、200年以上にわたり国際的な戦いのない平和な時代を構築しましたが、その代償として武器の開発は外国より遅れていました。
このことから、イギリスが新政府軍を支援する一方で、フランスは幕府軍を支援。このまま対立が続けば、いずれイギリスとフランスの間で戦いがはじまることは火を見るよりも明らかでした。どちらが勝利しても外国の植民地になることが容易に予測できる状況の中で、なんとか外国の支配を免れるために大政奉還が行われたとも言われています。
大政奉還後の政権と戊辰戦争
大政奉還後の幕府
西郷隆盛
大政奉還がなされたことにより、形式上の江戸幕府は終わりを迎えましたが、朝廷の実務機関は機能していなかったため、徳川慶喜の予想通り、引き続き幕府が政権を握りました。
徳川慶喜はこの状態を維持し、いずれは武家による議会を発足させたいと考えていましたが、薩長を中心とする倒幕強硬派は、なんとしても徳川慶喜と佐幕派(さばくは:幕府を補佐する派閥)を打倒しなければならなかったのです。
倒幕強硬派が目指すのは「西洋式の新しい国家」であったため、旧体制のシンボルである幕閣が政権の中心にいることでの影響を懸念。倒幕強硬派の「西郷隆盛」らは、徳川慶喜に対して官位と領地を朝廷に返還するよう求めますが、徳川慶喜はこの要求を拒否しました。
しかし、朝廷との対立ができない徳川慶喜は、衝突を避けるために、本拠地を京都から大阪城へ移したのです。
1868年(明治元年)「戊辰戦争」が勃発
土方歳三
旧幕府軍は、新政府軍の圧力的な態度に対して武力で抵抗することを決意し、1868年(慶応4年・明治元年)に「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が勃発します。旧幕府軍と新政府軍の戦いは1年以上に及びましたが、「鳥羽・伏見の戦い」より戦争がはじまってから約4ヵ月後には、「江戸城」が無血開城されました。
その後、新政府軍は北上する旧幕府軍を追い、会津(現在の福島県)での戦いを経て、ついには北海道の箱館まで追い詰めます。
佐幕派である旧幕府海軍の「榎本武揚」(えのもとたけあき)や、新撰組の副長「土方歳三」は「五稜郭」(北海道函館市)を占領しますが、新政府軍の総攻撃を受け、陥落。土方歳三は戦死し、榎本武揚らが降伏したことで、新政府軍が勝利し、戊辰戦争は終結を迎えました。
五稜郭で最期を迎えた新撰組の副長土方歳三が戊辰戦争で使用した日本刀「大和守源秀国」(やまとのかみみなもとのひでくに)は現存しており、幕末から明治にかけての資料を展示している「霊山歴史館」(京都府京都市)に所蔵されています。