西園寺家伝来の日本刀 刀 無銘 伝安綱
「公家」(くげ:朝廷において天皇に仕えていた貴人・上級官人)における名門のひとつ「西園寺家」(さいおんじけ)。平安時代後期から現代に至るまで存続しており、著名な人物としては、明治政府において2度に亘り内閣総理大臣を務めた「西園寺公望」(さいおんじきんもち)がいます。 由緒正しい公家のイメージが強い西園寺家ですが、実はその庶流には、「武家」となって京都から遠く離れたある場所を所領としていた、もうひとつの「西園寺家」がありました。それは、「伊予国宇和郡」(いよのくにうわぐん:現・愛媛県南西部)の「伊予西園寺家」。西園寺本家と伊予西園寺家の関係とは?両家に伝来していた日本刀である刀「無銘 伝安綱」の詳細と共にご紹介します。
目次
西園寺本家のルーツと伊予西園寺家の誕生
西園寺本家が流れを汲む「藤原北家」とは
西園寺本家の始祖は、「藤原北家閑院流」(ふじわらほっけかんいんりゅう)5代目「藤原公実」(ふじわらのきんざね)の4男・「藤原通季」(ふじわらのみちすえ)。閑院流を発した藤原北家の嫡流は、「摂関政治」(せっかんせいじ)で天皇家と深いかかわりを持ったことで、絶大な権力を握っていた家系。藤原北家嫡流の5代目・良房(よしふさ)のときに、皇族以外の臣下として初の「摂政」(せっしょう:天皇が幼少や女性などの場合に、代わりに政務を行なう役職)となります。
そして、良房の甥で養子となった基経(もとつね)が、「関白」(かんぱく:成人後の天皇の補佐として、政務を担う役職)に任じられて以来、藤原北家嫡流は摂関家として国政を牛耳っていました。
藤原北家嫡流が代々摂関家となり得た方法は、一族の娘を次々と天皇のもとへ入内(じゅだい:皇后や中宮になる人が内裏に入ること。天皇との婚姻を意味する)させ、天皇とのあいだに生まれた皇子(=藤原氏が外祖父の立場になる)が即位したときに、摂政や関白となって実権を握るというもの。天皇との外戚(母方の親類)関係を利用した摂政政治は、道長(みちなが)とその息子・頼通(よりみち)の代で最盛期を迎え、特に頼通のときには第68代「後一条天皇」(ごいちじょうてんのう)より3代、約50年もの長きに亘り、摂政及び関白を務めていたのです。
「閑院流」の台頭~摂関政治から院政への移り変わり~
後三条天皇
藤原北家嫡流が摂関政治で栄えた一方で、西園寺家の始祖・通季が出た閑院流は、摂関政治に成り代わって登場した「院政」(いんせい:天皇が皇位を譲ったあとも、上皇や法皇となって直接政務を行なった政治体制)期に躍進した家系でした。
1068年(治暦4年)に第71代「後三条天皇」(ごさんじょうてんのう)が即位したことで、藤原北家嫡流の摂関政治に陰りが見え始めたのです。
後三条天皇は、藤原氏に直接の外戚を持たない天皇。これは、第59代「宇多天皇」(うだてんのう)以来、約170年ぶりのことでした。厳密に言えば、後三条天皇の母「禎子内親王」(ていしないしんのう)の祖父が藤原道長であることから、藤原氏の血を引いています。ところが禎子内親王の父、つまり後三条天皇の外祖父は「三条天皇」(さんじょうてんのう)であったため、これまで外祖父の立場を利用して摂関の地位に就いてきた藤原氏のやり方が、後三条天皇の代で通用しなくなったのです。
後三条天皇のときにも、道長の5男・教通(のりみち)が関白に就いてはいました。しかし、藤原北家嫡流による政権独占に対して危機感を持っていた後三条天皇は、儒学者であった「大江匡房」(おおえのまさふさ)を天皇の秘書の役割を担う令外官・蔵人(くろうど)に起用するなど、摂関家、すなわち藤原氏に頼らない「親政」(しんせい:天皇自身が政治を行なうこと)に力を尽くしました。
後三条天皇は、即位からわずか4年後の1072年(延久4年)、「貞仁親王」(さだひとしんのう:のちの白河天皇[しらかわてんのう])に譲位。院政を開始しようと試みますが、その翌年、後三条天皇が崩御します。
1086年(応徳3年)、後三条天皇の遺志を受け継いだ白河天皇が、第73代「堀河天皇」(ほりかわてんのう)に譲位したことにより、本格的な院政期に突入。そしてそれは、1221年(承久3年)に、第82代天皇の「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が「承久の乱」(じょうきゅうのらん)の敗北により流罪となるまで続いたのです。後三条天皇は、摂関政治から院政への過渡期におけるキーパーソンであったと言えるでしょう。
藤原北家嫡流及び後三条天皇周辺関係図
閑院流が院政期に行なった生き残るための方法
院政に移行したことで、藤原北家嫡流による摂関政治が衰退。そこで新たに実権を握ろうと動き出したのが、藤原北家から出た閑院流だったのです。
道長の叔父にあたる「藤原公季」(ふじわらのきんすえ)を祖とする閑院流は、摂関家であった藤原北家嫡流と同じく、天皇家との外戚関係を結ぶ手法を採りました。
3代目・公成(きんなり)の娘である茂子(もし/しげこ)を「尊仁親王」(たかひとしんのう:のちの後三条天皇)のもとへ入内させ、貞仁親王(のちの白河天皇)が生まれたことを皮切りに、3代に亘る「後宮(こうきゅう:天皇の妻となる皇后や妃などが住む宮殿)工作」が行なわれたのです。
後宮工作は公実のあとにも続いていきますが、その後の閑院流が院政に大きくかかわっていくようになったのは、公成以下3代が娘を天皇家に入内させ、外戚関係になれたことが大きな契機になったと言っても過言ではありません。
実際に公実の息子達は、5男の実能(さねよし)は左大臣に、そして次男の実行(さねゆき)は朝廷の最高職である太政大臣(だじょうだいじん/だいじょうだいじん)にまで上りつめ、院政期における出世の道を順調に歩んでいます。
また、実能は「三条家」、実行は「徳大寺家」の祖となりました。公家社会では、平安時代末期から鎌倉時代にかけて「家格」が形成され、そのトップが摂関家(摂家)でしたが、両家はその摂関家に次ぐ「清華家」(せいがけ)のひとつに数えられているのです。
そして、閑院流から発したもうひとつの清華家が西園寺本家でした。その祖である通季は、実能らと同じく公実の3男。清華家は、太政大臣にまで昇進できる家格。太政官制が廃止される明治時代の内閣制度成立までに、西園寺本家からは6人の太政大臣が輩出されています。
栄華を極めた西園寺本家の退転、伊予西園寺家の誕生へ
西園寺公経
6人いる歴代の太政大臣の中に、西園寺本家の事実上の祖であると考えられている人物がいます。それは、通季の曾孫で第4代当主にあたる「西園寺公経」(さいおんじきんつね)。
1224年(貞応3年/元仁元年)、公経は「金閣寺」(きんかくじ:正式名称鹿苑寺[ろくおんじ])がある京都の北山の地に、通称「北山第」(きたやまてい)と呼ばれる別荘を建て、そこに仏堂を造営し、「西園寺」と名付けました。
そこから公経は、自身の姓を「藤原」から西園寺に変え、公経の子孫達も同様に称するようになったのです。
藤原北家閑院流~西園寺家系譜図(藤原師輔~西園寺公経)
西園寺本家は、天皇家の外戚として権勢をほしいままにしただけでなく、鎌倉時代の第6代当主・「西園寺公相」(さいおんじきんすけ)が、第89代「御深草天皇」(ごふかくさてんのう)の琵琶の御師(おんし:皇族に音楽を教える者。当時の天皇は、琵琶の習得が必須とされていた)に任じられて以降、西園寺本家の当主が歴代天皇に琵琶の奏法を伝授するようになるなど、文化面でも天皇家と深くかかわるようになっていきました。
しかし、1333年(元弘3年[南朝]/正慶2年[北朝])、朝廷に変わって実権を握っていた鎌倉幕府が滅亡すると、西園寺本家は退転していきます。と言うのは、鎌倉幕府初代征夷大将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の姪であった「一条全子」(いちじょうまさこ)が公経の妻であったことなどから、鎌倉時代の西園寺本家は公家でありながら、幕府とも密接な関係を築いていたのです。
後醍醐天皇
そのため、第96代「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府を滅ぼし、「建武の新政」(けんむのしんせい)を開始して親政を復活させると、西園寺本家に対する反感が高まっていきました。
この「建武政権」は、後醍醐天皇の味方に付いていた「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が離反したことにより、1336年(建武3年/延元元年[南朝])に、わずか2年半余りで崩壊します。
そしてその後は、足利尊氏が「光明天皇」(こうみょうてんのう)を擁立し、京都で成立させた「北朝」(ほくちょう)と、後醍醐天皇が奈良の吉野(よしの)へ逃れて開いた「南朝」(なんちょう)の2つに朝廷が分立。社会的な混乱を招くこととなる「南北朝時代」へと突入していくのです。
南北朝期の1376年(永和2年[北朝]/天授2年[南朝])、西園寺本家では、公経の代である1236年(嘉禎2年)からの所領であり、代官を置いて統治させていた宇和の地に、庶流の子孫「西園寺公良」(さいおんじきんよし:公良の子・公俊[きんとし]の説もあり]を下向させました。これは、西園寺本家が衰退に向かっているだけでなく、2つの朝廷が同時に存在するという動乱もある中で、荘園から得られる年貢収入を何とか維持しようと考えてのことだったのです。そして公良以降、伊予国に西園寺家の庶流が土着することとなり、伊予西園寺家が誕生しました。
伊予西園寺家系譜図(西園寺公経~公広)
2つの城から見る伊予西園寺家の隆盛と衰退
宇和郡の地頭職が「橘氏」から「西園寺氏」に交代した経緯
もともと宇和郡は、有力豪族であった「伊予橘氏」が、地頭(じとう:鎌倉幕府において、荘園の管理支配を行なうために設けられた職)を代々務めていた領地。その発端は定かではありませんが、主に2つの文献による説が伝えられています。
吾妻鏡による説
橘遠保
「吾妻鏡」(あづまかがみ/あずまかがみ:[東鑑]とも)は、鎌倉幕府が編纂した公式記録。これによれば、橘氏が宇和郡を領するきっかけは、藤原北家出身でありながら、936年(承平6年)頃までに海賊化した「藤原純友」(ふじわらのすみとも)が瀬戸内(せとうち)において、939~941年(天慶2~4年)、朝廷に対して起こした一連の反乱事件にまで遡ります。
伊予国の警固使であった「橘遠保」(たちばなのとおやす)が、941年(天慶4年)に純友を討ち取った功績が認められ、朝廷より宇和郡を賜って以降、橘氏にその地が受け継がれていたとされているのです。
橘公業の譲状による説
源頼朝
「譲状」(ゆずりじょう)とは、平安中期以降、所領や財産などを譲渡する際にその内容を証明するため、所有者から譲渡相手に与えられた証書のこと。1236年(嘉禎2年)、「橘公業」(たちばなきみなり)が公経に宇和郡を譲ったときに交わされた譲状には、「故右大将家より宇和郡地頭職を賜って以降……」という記述があります。
「右大将」とは、鎌倉幕府の将軍だけでなく「右近衛大将」(うこんえのだいしょう)にも任じられていた源頼朝のこと。1180~1185年(治承4~元暦2年)にかけて起こった、いわゆる「源平合戦」(げんぺいかっせん)における武功により、宇和郡での地頭職が頼朝から橘氏に与えられて以来、その所領になったと考えられています。
橘氏が宇和郡を本領とした理由がどのようなものであったにしろ、橘氏にとっての宇和の地は、先祖代々受け継がれ、そして守られてきた言わば貴重な財産。しかしながら、以前からの公経による強い要望もあり、鎌倉幕府は公業を地頭職から罷免し、公経を新たに任じました。これに対して公業は、何の失態も犯していないのに宇和を奪われるいわれはないと幕府に訴え、当初は拒んでいたのです。
ところが公経は、「この要求が受け入れられなければ、私は子孫への面目を失ってしまいます。鎌倉まで赴いてでもその理由を申し上げるつもりです」という内容の手紙を、公業宛に送ります。
これを受け取った公業は、公経に鎌倉にまで来られることで、さらに大きな問題になることを懸念。結局は公経の熱意に根負けする形で、宇和郡について公経が直轄管理することを承諾したのです。
半ば横領に近い形となった宇和郡の地頭職交代劇。その背景には、公経が鎌倉幕府第4代将軍「藤原頼経」(ふじわらよりつね)の祖父であり、同じく第3代執権の「北条泰時」(ほうじょうやすとき)とも懇意の間柄であったことも理由にあると推測されています。公経のある種のわがままが、幕府によって叶えられたとも言えるかもしれません。
伊予西園寺家が本拠とした2つの城
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宇和郡での勢力を拡大した松葉城
- 宇和郡に定住した伊予西園寺家は、荘園を管理していくと共に、戦国武士化して在地の豪族達を統治していきます。そして郡内において、一族がいくつかに分派しました。それらは「立間殿」(たちまでん)や「来村殿」(くのむらでん)などと称され、一時は互いに衝突していたのです。その中でトップに君臨した一派が「松葉城」(まつばじょう)を居城とし、「松葉殿」と呼ばれることになりました。
松葉城は、伊予国の南西部に位置する宇和盆地に築かれた山城。ほとんど平地が見られない地形であった宇和郡において、宇和盆地を拠点にできたということは、稲作に適した平坦地の確保が可能であったということ。それは、米が主な収入源である時代には非常に重要な意味を持ち、それ故に松葉殿は、他の一族を抑えて優位な立場になれたのです。城跡からは、発掘調査において青磁片などが多量に出土しており、松葉城での暮らしは、公家出身らしい優雅で華やかなものであったことが窺えます。
元来松葉城は、「岩瀬城」(いわせじょう)と呼ばれていました。しかしある日、城内で開かれた世継ぎを祝うための宴の席で、ある武将の杯の中に「松の葉」が落ちます。松の木は、古くから縁起が良いと考えられていた物。そのため、城の名称が城主によって松葉城に改められたと言われているのです。
松葉城の築城年などは明らかになっていませんが、公良が宇和郡に下向して以降、約170年間に亘って伊予西園寺家の居城となりました。そして、第7代当主・実充(さねみつ)のときに「黒瀬城」(くろせじょう)へ居城が移され、松葉城はその支城(しじょう:本城を守るために、補助的に配置された城)となったのです。
なぜ、居城を移すことになったのでしょうか。その理由についてご説明します。
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理由その1:松葉城の水の手不足
- 水の手とは、城内に飲用水を引き込む水路や、その水を供給可能にした場所のこと。実充が黒瀬城を建築したとされる1546~1556年(天文15~弘治2年)には、すでに戦国時代に入っており、居城を戦に耐えられる物に整備することが急務でした。
水の手を断つことは、「兵糧攻め」(ひょうろうぜめ:敵の食料補給路を断ち、兵糧を欠乏させて戦闘力を弱らせる戦法)と同じくらい、長期になる籠城戦においては有効な手段。しかし、松葉城では水の手が十分にあるとは言えない状況にあったため、より多くの水の手を確保できる環境であった場所に黒瀬城を築いたのです。
理由その2:対抗勢力の位置変化
- 宇和郡、すなわち伊予国の南予地方を本領としていた伊予西園寺家。その対抗勢力の本拠となっていた場所が時代の変化に伴って移動したことに、もうひとつの理由があります。
- 南北朝時代~室町時代中期の宇和郡北方諸勢力
- 領地の境界を接する(=南予地方北部)喜多郡(きたぐん)の宇都宮氏(うつのみやし)
- 東予・中予地方を中心とした河野氏(こうのし) など
- 戦国時代の伊予国周辺諸勢力
南北朝時代から室町時代中期には、対抗するいくつかの勢力が宇和郡の北方に集中していました。しかし戦国時代に入ると、宇和盆地の南方に堅固な要塞を築く必要性が出てきたため、伊予西園寺家の本拠が黒瀬城に移されたのです。
- 南北朝時代~室町時代中期の宇和郡北方諸勢力
「四国統一」の大義名分に翻弄された黒瀬城
- 水の手とは、城内に飲用水を引き込む水路や、その水を供給可能にした場所のこと。実充が黒瀬城を建築したとされる1546~1556年(天文15~弘治2年)には、すでに戦国時代に入っており、居城を戦に耐えられる物に整備することが急務でした。
- 実充が黒瀬城に入ると、1556年(弘治2年)、領土を争っていた「宇都宮豊綱」(うつのみやとよつな)により支城である「飛鳥城」(あすかじょう)を襲撃され、嫡男・公高(きんたか)が討たれて敗北します。
しかし、「湯築城」(ゆづきじょう)城主「河野通宣」(こうのみちのぶ)の取り成しを受け、実充と豊綱は何とか和睦。
そして、跡継ぎを失った実充は1565年(永禄8年)、伊予来住寺(きしじ)で僧籍にあった甥・公広(きんひろ:公広の父・公宣[きんのぶ]は実充の弟)を還俗(げんぞく:出家した僧侶が再び俗人に戻ること)させ、養嗣子として迎え入れました。その後も公広は、実充の娘・西姫(にしひめ)の婿となり、伊予西園寺家の家督を継ぐことになったのです。また、同年に公広は土佐国の「一条兼定」(いちじょうかねさだ)のもとへ攻め込んでいます。
元亀年間(1570~1573年)になると、周辺の諸勢力による伊予西園寺家への攻撃が激しさを増し、1572年(元亀3年)には、北九州最大の勢力であった大友氏の第21代当主「大友宗麟/義鎮」(おおともそうりん/よししげ)が黒瀬城を攻撃。これは、大友氏と姻戚関係にあった土佐一条氏(宗麟の娘が「一条兼定」の正室)を、同年に公広が再び攻めたことに対する報復であったと考えられています。
長宗我部元親
天正年間(1573~1592年)には、土佐一条氏に代わって土佐国で台頭していた長宗我部氏が、たびたび黒瀬城へ侵入。長宗我部氏第21代当主・長宗我部元親が1575年(天正3年)に土佐国の統一を果たし、「四国統一」の実現に向けて邁進していた中で、伊予西園寺家が領していた南予地方の侵攻にも乗り出したのです。
1581年(天正9年)には、実充の時代に整備された城下町が長宗我部氏により焼失。そして1584年(天正12年)、元親の猛攻により黒瀬城は陥落。公広は、長宗我部氏に降ることになりました。
1585年(天正13年)、元親が四国統一を成し遂げるも、天下統一へと動き出していた「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)が、四国平定に向けて兵を出します。その過程において、安芸国(あきのくに:現・広島県西部)の戦国大名「毛利元就」(もうりもとなり)を父に持つ「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)が、武功を挙げたことで秀吉から伊予国を賜り、湯築城へ入城。その後も隆景は、伊予国内の城を次々に陥れました。隆景率いる毛利軍との圧倒的な軍備の差を前に、伊予西園寺家は戦わずして隆景の配下に組み入れられることとなったのです。
このとき、秀吉に臣従していた「毛利輝元」(もうりてるもと)の仲介で黒瀬城のみが残され、公広は在城を許されています。そして1586~1587年(天正14~15年)にかけて行なわれた九州平定では、隆景軍に属して参陣するなどしました。
大洲城
しかし、四国平定後の1587年(天正15年)に、古くからの秀吉の直臣であった「戸田勝隆」(とだかつたか)が宇和・喜多郡16万石を封ぜられて「大津城」(おおつじょう:のちの[大洲城]:おおずじょう)に入城すると、黒瀬城には城代(じょうだい:城主が出陣などで留守のあいだ、城主の代わりに城や領土を守り、政務を担当した家臣)が置かれることに。
公広は、これに伴って黒瀬城からの下城を命じられ、遍照山願成寺(へんじょうざんがんじょうじ)で隠棲(いんせい:俗世間から離れて、静かな生活を送ること)を始めます。
ところが同年の12月8日、公広宛に「秀吉が公広に対し、宇和郡の本領を再び安堵した」という旨の朱印状が勝隆から届きます。その翌日、勝隆の誘いを受けた公広は、怪しみながらも大津に向かいますが襲撃され、自刃の末に息絶えてしまいました。
伊予西園寺家に伝来した日本刀 刀 無銘 伝安綱
「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」これは公広が、勝隆に呼び出されて大津に向かうときに残したとされる辞世。伊予西園寺家の菩提寺であった「清泰山 光教寺」(せいたいざんこうきょうじ:西予市宇和町)には公広の御廟があり、この辞世が刻まれた石碑が建てられています。
「宇和の人々よ、私は謀殺されたのではない。黒瀬山の峰の嵐に木の葉が散るように、自然の摂理によって、我が身は散っていったのだと他人には告げなさい」
この辞世からは、これから自分の身に起こることに対する公広の覚悟と同時に、恨みを残すことは新たな争いを生むことになると、残された領民達の行く末をも案じていることが窺えるのです。
こうして、室町時代から続いた名門・伊予西園寺家は滅亡し、その名を後世にまで存続させることは叶いませんでしたが、ある貴重な物が現代にまで伝わっています。
それは、西園寺家が宇和の地に下向する際に携えて来たとされる日本刀、刀「無銘 伝安綱」(やすつな)。この伝安綱は伊予西園寺家が滅んだあと、いったんは豊臣秀吉に献上されました。その後、秀吉によって西園寺本家に返却され、現代まで受け継がれているのです。
安綱は、伯耆国(ほうきのくに:現・鳥取県中部、西部)大原(おおはら)在住であった日本刀の刀工。同地における刀工の始祖であると伝えられ、現存する日本刀の在銘作がある刀工の中では、最初期の頃のひとりであると考えられています。
これまで安綱は、「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ:758~811年[天平宝字2~弘仁2年])の佩刀を作ったという言い伝えにより、大同年間(806~810年)頃に活躍したとされてきました。
しかし、国宝に指定されており、日本刀の名物でもある太刀「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)など現代にまで伝わる安綱作の物は、「直刀」が主流であった大同年間には見られなかった、反りの付く「湾刀」です。また、童子切については「源満仲」(みなもとのみつなか:912~997年[延喜12~長徳3年])の依頼によって作られた刀であり、満仲の長男・頼光(よりみつ:948~1021年[天暦2~治安元年])が用いていたという伝承があります。
そのため、安綱の作刀時期は、山城国(やましろのくに:現・京都府南部)の日本刀の刀工「三条宗近」(さんじょうむねちか)などと同時代とされる、平安時代中期の永延年間(987~989年[永延元~永延3年])頃であるということが、現在では通説となっているのです。

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銘
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無銘
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鑑定区分
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重要刀剣
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刃長
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79.3
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所蔵・伝来
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西園寺家→
豊臣秀吉→
西園寺家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
こちらの刀 無銘 伝安綱は大磨上無銘ではありますが、鍛えは板目が肌立ち、刃文は小乱れを主調として小丁子が交じって厚く沸付き、砂流し・金筋がかかるなど安綱の特色をよく示す刀。このように古雅な地刃であることから、安綱作の日本刀の一種である刀と鑑することが可能です。