宗尊親王(征夷大将軍)所持の太刀 正恒
宗尊親王はなぜ鎌倉幕府将軍になったのか?
父・後嵯峨天皇と宗尊
後嵯峨天皇
宗尊親王の父・後嵯峨天皇は、生まれてすぐに生母と死別し、翌年には朝廷と鎌倉幕府の間で勃発した「承久の乱」によって、父「土御門院」(つちみかどいん)が流刑となり引き離されるという悲劇的な運命を背負うこととなりました。
祖母に引き取られて養育されたものの、20歳を過ぎても親王の地位を与えられることはないどころか、元服さえ果たせずにいた無名の皇族でした。
後嵯峨天皇が転機を迎えたのは、1242年(仁治3年)のこと。先代の「四条天皇」(しじょうてんのう)が急死し、彼には兄弟も皇子もいなかったことから、朝廷は次期天皇候補が不在という状況に陥りました。
そこで、当時の執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)は、故・土御門院の皇子である後嵯峨を指名。承久の乱以降、皇位の決定権は幕府に委ねられていたため、朝廷の予想とは裏腹に後嵯峨が皇位継承すると決まったのです。
こうして後嵯峨天皇が即位すると、彼がこれまで送ってきた不遇な人生の反動からか、大がかりな諸行事を中心とした華やかな治世となりました。承久の乱以降、衰退していた公家社会が、後嵯峨天皇の時代には活気を帯びたのです。
同年11月22日、後嵯峨天皇即位後すぐに第一皇子が誕生します。これが宗尊親王。実母は「平棟子」(たいらのむねこ)という後嵯峨の内侍をしていた女性でした。同年、後嵯峨は西園寺家の娘を中宮に立て、翌年に第二皇子である「久仁親王」(ひさひとしんのう)が誕生します。
西園寺家は幕府からの信頼も厚い名家でしたが、宗尊親王の母・棟子の家柄はそれほど高くなかったため、第二皇子である久仁親王が当然と言わんばかりに皇嗣(こうし:皇位継承の第一順位)に立てられることとなったのです。1246年(寛元4年)には、久仁親王が「後深草天皇」(ごふかくさてんのう)として、4歳で即位しました。
一方、宗尊親王と母・棟子は母子そろって容姿が大変美しかったこともあり、当時の公家日記には宗尊親王・棟子母子に対する称賛の声が多数記述。こうして宗尊親王は、皇位継承を逃したものの、母子共に後嵯峨天皇の愛情を受けて、幼少期を後嵯峨天皇のもとで過ごし、不自由なく成長を遂げるのです。
北条氏の画策により「親王将軍」として鎌倉へ
北条時頼
1252年(建長4年)、鎌倉幕府は第5代将軍「藤原頼嗣」(ふじわらのよりつぐ)を廃し、次代将軍に「後嵯峨院の皇子を迎えたい」という要望を奏上しました。
このとき、宗尊親王を名指しした訳ではありませんが、同年に元服を済ませて準備をしていた様子がうかがえることから、院と幕府の間で宗尊親王を鎌倉へ送ることが決まっていたと考えられます。
当時、「北条時頼」(ほうじょうときより)は名執権として名を挙げていましたが、鎌倉幕府において、いくら将軍が「お飾り」的な存在だったとしても、武家政権は将軍を失くすことができないという性質から、将軍になる人物はできる限り高貴な家柄であることが望ましいと考えていました。こういった背景から、時頼は親王将軍を強く希望したのです。
奏上を受けた1ヵ月後、宗尊親王一行は華々しく装って京都を発ち、同年4月1日に鎌倉へ着くと、時頼に迎えられて将軍邸へと入りました。宗尊親王は幕府から特別な待遇を受け、将軍邸は御所となり、親王将軍という未だかつてない君主に対して家政機関が整備されたのです。
なかでも、将軍の身辺に仕える「関東伺候廷臣」(かんとうしこうていしん)は宗尊親王の代で一気に増加し、和歌や蹴鞠を家芸とする家の者が多く仕えることとなりました。平たく言えば、将軍のお世話をする役職でしたが、現実政治には表向きは関与することはなかったと言われています。
こうして、和歌や蹴鞠は将軍御所を荘厳な場にする文化として、宗尊親王の時代に深く浸透していきました。
和歌を愛した宗尊親王の人生
歌人の才能を開花させた親王将軍
宗尊親王
1260年(文応元年)宗尊親王は、後深草天皇の摂政を務めていた「近衛兼経」(このえかねつね)の娘「宰子」(さいし)を正室に迎えます。
婚儀を終えた宗尊親王は、歌道・管弦・右筆(ゆうひつ:文書を代筆する役目の者)・弓馬・郢曲(えいきょく:歌曲)など、一芸を持つ者を集めて「昼番衆六番」を編成し、将軍御所をますます華やかに活気付けました。
またこの頃、宗尊親王に和歌を教える師として「真観」(しんかん)を迎えます。「当世歌仙」と称された真観の導きによって、鎌倉では一気に和歌行事が急増。いわゆる「和歌ブーム」のようなものが巻き起こりました。鎌倉では御所和歌会が開かれ、「続ぎ歌」(つぎうた)が開催。この続ぎ歌というのは、100首、50首、30首といった定数歌を、振り分けられたお題に沿ってその場で詠むという歌会で、歌会で詠まれた物を継いで一巻とすることから「続歌」とも呼ばれています。
鎌倉歌壇が盛り上がる中、宗尊親王の和歌に対する情熱は誰よりも熱く、その勢いは同時代において最も才能がある歌人だったと称されるほど。宗尊親王の和歌への興味は一過性のブームとしてではなく、晩年まで和歌に対するモチベーションを保ち続けたまま、膨大な作品をこの世に残しました。
宗尊親王の現存歌は3,000首を越え、4種の家集(かしゅう:個人の和歌集)が現存しています。毎月詠んでいた定数歌をまとめて編集した物や、旅先や日常における感情を詠んだ物など様々な作品が残っており、この家集以外にも断片的にいくつもの宗尊親王の作品が残されていることが分かっています。これほど多くの作品を残した歌人は珍しく、宗尊親王がいかに和歌を愛していたかが伝わってくるのです。
宗尊親王の失脚と悲哀に満ちた和歌
1263年(弘長3年)、北条時頼が亡くなると、宗尊親王を鎌倉に迎え入れた武家は皆いなくなってしまいました。時頼が亡くなった2日後には、宗尊親王は10首の悲哀歌を詠んでいます。この頃から、次第に暗く重い和歌を詠むようになり、まだ20代そこそこの若き将軍とは思えないほど、人生に悲観的な様子をうかがわせています。和歌にも表れていたように、この頃すでに宗尊親王の周りには暗雲が立ち込めていたのです。
1266年(文永3年)、宗尊親王は突然将軍の座を奪われ、京都へ送還されてしまいます。在職期間は15年、まだ25歳という若さでした。この事件は、当時の執権「北条政村」(ほうじょうまさむら)と「時宗」(ときむね)によって、計画的に仕組まれたもの。将軍夫妻の僧職に就いていた「良基」(りょうき)と宗尊親王の正室・宰子の密通騒動において、宗尊親王が謀叛を企てたという嫌疑をかけられたために、宗尊親王は追放されることとなったのです。
こうして宗尊親王は軟禁状態に置かれ、父である後嵯峨や生母・棟子からも親子の縁を切られてしまう事態に。罠にはめられた宗尊親王は、罪人とみなされてすべてを失ってしまいました。
失墜した宗尊親王の心に最後まで寄り添っていた物、それは和歌でした。宗尊親王は、鎌倉から上洛する道中にも歌を詠み続け、帰京後も作歌意欲を失うことなく、辛く苦しい気持ちを浄化させるかのように和歌を詠んでいます。
「忘れずよ あくがれそめし山ざとの そのよの雨の音のはげしさ」
というような、失脚時の体験をテーマに詠んだと思われる作品も残されており、この歌にあるように宗尊親王の鎌倉最後の夜は激しい雨。宗尊親王にとっては計り知れないほど辛い出来事だったと思いますが、この経験によって宗尊親王は、歌人としての地位を絶対的な物にしたとも言えるでしょう。
その後、出家して晩年を京都で静かに過ごした宗尊親王は、1274年(文永11年)7月29日、33歳の若さでこの世を去りました。
足利将軍家伝来・古備前の名匠 正恒
和歌と共に短い人生を終えた宗尊親王。彼が所持していたと言われている日本刀「正恒」は、その後足利将軍家に伝来していることから、恐らく鎌倉を去ることとなった時点で、宗尊親王の手から幕府へ渡ったのではないかと考えられます。
正恒は、平安時代後期に備前国長船(びぜんのくにおさふね:現在の岡山県瀬戸内市)で活躍した刀工で、同時代の「友成」(ともなり)と共に古備前を代表する名匠として有名です。
2人が活躍した長船地方は、文化や経済、交通といった面に恵まれた土地で、備前鍛冶の繁栄と共に、日本刀の大量生産地としても伝統を築き上げました。優美な作風の友成に比べて、正恒は総体に垢抜けて洗練された物が多く、銘に関しても友成は「備前国友成」といった長銘の作品があるのに対して、正恒は二字銘を貫いているという違いも見受けられます。
本刀も正恒の特徴が存分に表れた優品で、江戸時代前期に制作されたと見られる「銀平目地龍文蒔絵鞘半太刀拵」が付帯しています。
![太刀 銘 正恒(古青江)](https://www.touken-world.jp/wp/wp-content/uploads/2019/01/21593c23665ab48683dc40fec17df3cd.jpg)
太刀 銘 正恒(古青江)
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