末古刀
現存する末古刀は玉石混淆
玉石混淆
一部の意見ではありますが、「末古刀」と言えば、鎌倉時代に作られた古刀に比べると、いささか劣ると見る向きがあるそうです。もちろん、これは事実ではありませんが、そう思われてしまうのには理由があります。
鎌倉時代以前の古い時代に作られた日本刀は、およそ800年にもなる長い年月を経ている訳ですから、その間に選別され、優れた作品しか残っていません。また、粗悪な作品は鍛えも良くないので、長持ちせず、残ることができませんでした。
しかし、末古刀は作られてからまだ400年ほど。しかも、当時は各地で戦乱が起き、日本刀に対する需要も高まっていました。大量に生産されたがゆえに現存する作品も多く、名品と粗悪品が混在する、いわば玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の状態となっているのです。
この、残ってしまった一部の粗悪品が、偏見を生む原因になったと言えます。
名品と粗悪品の見分け方
末古刀の代表格 末備前
末古刀の代表格は、「末備前」(すえびぜん)だと伝えられています。1504年(永正元年)頃から1592年(文禄元年)の前までに、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東部)で作られた日本刀のことです。
戦国時代に増大した、武器としての日本刀の需要に応えたため、備前刀のなかでも、質、量共に最大の制作期間となりました。とりわけ、注文打ちの刀には、地鉄の鍛錬(たんれん)が優れた作品が数多く残っています。
そんな末備前を代表する刀工が、「与三左衛門尉祐定」(よそざえもんのじょうすけさだ)と「五郎左衛門尉清光」(ごろうざえもんのじょうきよみつ)という双璧です。
他にも名工は大勢いますが、特に技術力の高さを称えて、この両名がトップとして挙げられます。
与三左衛門尉祐定
「祐定」の銘を残した刀工は数十人も存在し、これは当時のブランド名でした。
そのなかでも与三左衛門尉祐定は、群を抜いて最高であったと伝えられる刀工です。切られた銘の「備前長船」(びぜんおさふね)と祐定の間に「与三左衛門尉」と俗名が入る作品は価値が高い日本刀。
与三左衛門尉祐定は、「乱刃」(みだれは:真っ直ぐではない刃文)を得意としていました。一見、「直刃」(すぐは)のように見える刀でも、多くは乱れ調子が出ています。刃文は盛んに「足」が入り、木の葉を散らしたような「葉」(よう)も働き、直刃に「丁子乱れ」を加えたようにも見え、たいへん華やかです。「鎬筋」(しのぎすじ)が高く、身幅の広い造込みは、末備前らしい作品と言えます。

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銘
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備州長船祐定
天文二十四年
二月日
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鑑定区分
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保存刀剣
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刃長
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68.4
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所蔵・伝来
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刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

五郎左衛門尉清光
毛利元就
「五郎左衛門尉清光」の日本刀は、歴史に名を残す武将や偉人にも選ばれてきました。
例えば、「毛利元就」(もうりもとなり)は「厳島の合戦」に際し、五郎左衛門尉清光に陣太刀(じんたち:太刀拵の様式のひとつ)を1振打たせたとのこと。名刀のおかげか、毛利元就は大勝利を納めました。
また、明治維新に活躍した「桂小五郎」(かつらこごろう)の愛刀も五郎左衛門尉清光。桂小五郎は国事に奔走し、維新の大業達成のために尽くす間、五郎左衛門尉清光を片時も離すことはなかったそうです。
五郎左衛門尉清光の作品のなかには、「青江派」(あおえは:平安時代末期から、鎌倉・南北朝時代に備中国で栄えた刀工一派)の古作を観るかのような「沸」(にえ)や「匂」(におい)が表れた物があります。姿は、鎬が厚く、身幅は広め、地鉄も良く鍛錬されて美しく、全体が上品です。名立たる武将に好まれたのも頷けます。
当時、人気を博していた与三左衛門尉祐定、五郎左衛門尉清光の両名工は注文打ちが多く、作風も多彩であったということです。

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銘
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備前国住
長船清光
弘治二年
二月日
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鑑定区分
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保存刀剣
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刃長
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26.7
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所蔵・伝来
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刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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銘
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備前国住
長船清光作
永禄六年
二月吉日
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鑑定区分
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特別保存刀剣
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刃長
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30.0
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所蔵・伝来
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刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
末古刀のもうひとつの雄「関」
備前と並ぶ、末古刀の代表的産地が関(せき:現在の岐阜県関市)。鎌倉時代、刀祖「元重」(もとしげ)が関の地に移り住み、刀鍛冶を始めたのが起源だと言われています。長良川(ながらがわ)と津保川(つぼがわ)の良質な水に恵まれたこの地には、多くの刀工達が集まり、室町時代には刀工が300人を超えていたそうです。
「折れず、曲がらず、良く切れる」と賞賛された関の日本刀は、戦国時代には、実戦向きとして数多の武将に愛用されました。この時代の作品が末古刀です。その切れ味から数の要望が多く、名刀が生み出される余裕がなくなってきていたとは言え、のちの世代からは、「新刀」や「新々刀」に比べ、独特の味わいがあると評価されています。
関の刀工のなかでも、最も知られていたのは、「兼元」(かねもと)と「兼定」(かねさだ)です。それぞれ何代も続く名門ですが、特に、2代目兼元は、「関の孫六」(せきのまごろく)と呼ばれ、「関伝」を有名にしました。
三本杉
兼元は、切れ味だけでなく、「三本杉」という新たな刃文を創作しています。さらに、独自の鍛刀法である「四方詰め」によって、より頑丈な刀を作ることに成功しました。
兼元らが残した伝統技能は、現代の刀工や刃物産業に受け継がれ、関は世界屈指の刃物の産地として知られています。

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銘
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兼元
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鑑定区分
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特別保存刀剣
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刃長
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71.1
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所蔵・伝来
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刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
その他の末古刀
需要の増大した室町時代以降には、「郷土刀」と呼ばれる作品が地方で数多く制作されました。末備前や関をブランドとするならば、準ブランドと言える地方刀工の日本刀ですが、決してブランド物に見劣りする訳ではありません。
著名な刀工としては、筑前国(ちくぜんのくに:現在の福岡県)の山伏刀工であったと伝えられる「金剛兵衛」(こんごうひょうえ)。金剛兵衛一派は、茎の形状を卒塔婆(そとば)の形に作るのが大きな特徴です。
また、薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県)で、平安時代から、新々刀期に至るまで栄えた「波平」(なみのひら)一派。作風の特徴は、「大和伝」(やまとでん)を踏襲しながら、「綾杉肌」(あやすぎはだ)を鍛えているところです。
さらに、肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)を本拠地とする一派の出身で、「加藤清正」(かとうきよまさ)に仕えた「同田貫藤原正国」(どうだぬきふじわらのまさくに)など、数え上げればきりがないほどの地方刀工達が手掛けた作品も、また現存しています。
末古刀とは、現代の我々に贈られたタイムカプセルです。400~500年前の刀が目の前にあり、その格調高い姿はもちろん、当時の優れた技術力や、時代背景までも垣間見せてくれます。これほど多面的で奥が深く、かつ贅沢な楽しみは、日本刀以外にはなかなかありません。