織田信長の歴史
「尾張の大うつけ」織田信長の青春時代
幼少・吉法師時代から元服まで
織田信長
「織田信長」は、1534年(天文3年)、尾張国(現在の愛知県)の「勝幡城」(しょばたじょう:現在の愛知県稲沢市と愛西市の境にあった城)城主「織田信秀」の嫡男として誕生。
幼名として「吉法師」(きっぽうし)の名を付けられ、元服前から「那古野城」(なごやじょう:現在の愛知県名古屋市にある[名古屋城]が築城される前まで存在した城)を居城として与えられるなど、嫡男としての待遇を受けていました。
戦国時代から江戸時代に生きた偉人の逸話などを集めた「名将言行録」(めいしょうげんこうろく)でも、吉法師の偉才ぶりを伝える記載があります。
吉法師が手習いとして、清洲の寺に通い40~50人ほどの兄弟弟子と学んでいたときのこと。
吉法師は、兄弟弟子に「印陳打」(いんじうち:石を投げ合って勝敗を決める遊び)で競わせ、活躍した子どもには、母からの仕送りを残らず分け与えました。周りの者はその様子を見て、「子どもながらも活躍した相手に褒美を取らせるとは。将来有望な武将となるだろう」と感心したということです。
時は流れ、1546年(天文15年)、13歳となった吉法師は元服を迎え、「織田三郎信長」と名乗ります。後見役は、織田信長の傅役(もりやく:教育係)を務めていた忠臣「平手政秀」。1547年(天文16年)、元服の翌年に、織田信長は吉良大浜(現在の愛知県碧南市、西尾市)で駿河勢(今川義元方)を相手に初陣を果たします。
悪友と悪ふざけ。「大うつけ」と呼ばれた青春時代
織田信長が元服して2年後の1548年(天文17年)、尾張と敵対していた美濃国(現在の岐阜県南部)領主「斎藤道三」と、織田信長の父・織田信秀が和睦し、平手政秀の案によって織田信長を斎藤道三の娘婿にする縁組みが取り決められました。織田信長は、斎藤道三の娘「濃姫」(帰蝶、または胡蝶とも呼ばれる)を妻として尾張に迎え、尾張と美濃の緊張状態は和らぎます。
この時期の織田信長は派手な身なりで、年齢の近い近習(きんじゅ:側に仕える者)や小姓と城下を練り歩き、悪友と悪ふざけをするといった奇行が目立ちました。織田信長の家臣「太田牛一」が著した「信長公記」(しんちょうこうき)では、織田信長の身なりと行動について、このように記しています。
「織田信長の身なりは湯帷子[ゆかたびら:浴衣のこと]を着用し、半袴を穿き、火打ち袋などいろいろな物を身に付け、髪は茶筅髷[ちゃせんまげ:髷を茶筅のように結った髪型]にし、紅色や萌黄色[もえぎいろ]の糸で巻きたてて結い、朱色の鞘に収めた太刀を差していた」
「また織田信長は、下品な振る舞いも多く、町中を歩きながら柿や栗、瓜を人目もはばからず齧[かじ]り、立ったまま餅を食すだけでなく、人に寄りかかりながら歩く、または人の肩にぶら下がりながら歩行をした」
美濃国と和睦したことで、平穏に落ち着いた城下では、織田信長のこのような奇行が目に余り、織田信長は人びとから「大うつけ」(大馬鹿者)と言われました。
武士としての鍛錬は実直だった
大うつけと言われていた織田信長ですが、その反面で武士としての感性を磨いていたことを示す逸話もあります。
朝夕に馬術を稽古し、川で水練に励むなど、基本的な鍛錬は欠かさず実施。また、兵達が竹槍を用いて練習試合を行なっているときには、「槍という物は短かったら具合が悪い」と述べ、兵に柄の長い槍を装備させたという話もあり、織田信長が自身の鍛錬以外にも、常に武器や戦術について思案して、いついかなるときに戦が起きても対応できるように備えていたことが分かります。
うつけの極み!父・織田信秀の葬儀で蛮行に及ぶ
万松寺
織田信長の逸話で特に有名なのは、父・織田信秀が死去した直後の出来事です。
織田信秀の没年に関しては諸説ありますが、葬儀は織田信秀が生前に建立した「萬松寺」(ばんしょうじ:愛知県名古屋市中区大須にある寺院で、現在の万松寺)で営まれ、300人の僧侶を参集させる大規模なものになりました。
織田信長は、家老を連れて参列しますが、服装は城下町を歩いていたときと同じ、葬儀の場としては全くふさわしくない物。そして焼香の際、抹香を掴んで仏前へ投げつけ、無言で駆け去るという所業に出ます。
この時、織田信長の弟「織田信勝」が、折り目正しい肩衣と袴を穿いて、作法も礼にかなったものであったため、ことさら織田信長の蛮行は槍玉に挙げられ、参列者は口々に織田信長のことを「大馬鹿者」と罵りました。
教育係平手政秀が突然の自害
織田信秀の葬儀で織田信長が行なった蛮行を悔やんだのは、かつて織田信長が元服のときに後見役となった平手政秀でした。
1553年(天文22年)、織田信秀死去ののち、平手政秀が突然、切腹によって自害してしまいます。自害に至った理由については、明確な記録が残されていないために諸説ありますが、「領主にあるまじき織田信長の行為を戒めるためだった」というのが有力な説です。
家臣切腹事件で覚醒?斎藤道三が見た織田信長の姿
斎藤道三
織田信長のうつけぶりを心配していたのは、平手政秀だけではありませんでした。尾張と和睦した斎藤道三も同様です。斎藤道三のもとにも織田信長の噂は届いており、ことの真相を確かめようと、斎藤道三は織田信長への面会を求めます。
会合の地である冨田(現在の愛知県一宮市冨田)で、斎藤道三はこっそり先回りして織田信長の様子をうかがうことにしました。従者を率いた織田信長が姿を現しますが、その際の様子に斎藤道三は驚きます。織田信長が引き連れてきた行列は800人にものぼり、いずれも槍や鉄砲、弓矢を携えた重装備だったのです。
一方で織田信長の格好は、織田信秀の葬儀で着用していた服装と似たような奇抜な格好であり、これから養父に会う者がする格好ではありませんでした。
そして織田信長は、会合する聖徳寺に到着すると、四方を屏風で囲み、その中で髪を結い直して正装となる袴姿に着替えます。武士然としたその姿は、うつけと呼ばれていた面影はなく、斎藤道三は一連の様子を見て「織田信長はわざと蛮行を演じていたのだ」と理解したのです。
また、信長公記によると織田信長は、斎藤道三が現れても柱に寄りかかったまま一切動じなかったとの記載もあり、大胆不敵な織田信長に対して、斎藤道三が将来性を見出すのも当然のことでした。
しかし、ことの顛末を知らない斎藤道三の息子達は、口々に「織田信長はうつけである」と罵ります。斎藤道三はこれを聞いて「大変残念である。お前達は必ずあのたわけの門外に馬をつなぐことになろう」と述べました。「馬をつなぐ」とは、すなわち家来になること。この言葉のあと、斎藤道三の前で織田信長を見下す者はいなくなったのです。
うつけから覚醒!軍事的カリスマ織田信長
桶狭間の戦い!戦前に織田信長が舞った「敦盛」とは
桶狭間の戦い
尾張を統一し、兄弟間の熾烈な抗争を勝ち抜いた織田信長は、1560年(永禄3年)、駿河の「今川義元」と対峙し「桶狭間の戦い」を迎えます。兵力では今川勢に分がある状況で、織田信長は出陣する前に家臣を鼓舞するための敦盛(あつもり)を舞いました。
敦盛は、「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」という一節で有名です。人生の短さを喩えた舞を終えた織田信長は、「法螺貝を吹け、武器をよこせ」と言い、出陣。
主君が家臣の目の前で披露したこの鼓舞は多くの若い家臣を勇気付け、兵力差の上で劣勢であった織田信長軍は、今川義元の首を討ち取りました。
天下取り宣言!実現するまで鷹を預かれ
今川義元を下した織田信長は、美濃を平定したあとに「足利義昭」(室町幕府15代将軍)を擁して天下を取ることを目指します。そして、この時期に織田信長は、天下人になることを宣言したという逸話が信長公記に記されていました。
ある時、丹波国桑田郡穴太村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)の穴太城城主「赤沢義政」が織田信長に面会したとき、赤沢義政は織田信長にこう進言しました。「所有する鷹2羽のうち、いずれか1羽を信長様へ献上いたします」。すると織田信長は、「お気持ちは嬉しいが、いずれ私が天下を取るであろうから、それまで預けておく。大事に飼ってくれ」と返答しました。
織田信長が足利義昭を擁して上洛を開始したのは、1568年(永禄11年)のこと。そして、1575年(天正3年)に朝廷から「従三位権大納言兼右近衛大将」(じゅさんみごんだいなごんけんうこんえだいしょう)を任じられた織田信長は、事実上の「天下人」となりました。
鷹の寿命はおよそ11年。織田信長は宣言通りに、天下を取ったのです。
天下取りへの徹底ぶり!垣間見る織田信長の残虐性
信じていたのに!義弟・浅井長政の裏切り
浅井長政
天下布武に向けていよいよ動き出した織田信長。1570年(元亀元年)に織田信長は、越前(現在の福井県)の「朝倉氏」征伐を開始しました。
京都から敦賀方面に侵攻し、越前中央部へ攻め込む予定でしたが、ここで近江の「浅井長政」が朝倉方に寝返ったという報告が入ります。浅井長政は、織田信長の妹「お市」(おいち)が輿入れした相手でした。
当初、浅井長政が寝返ったという報告を聞いても織田信長は信じませんでしたが、お市が織田信長に手紙を送ったことで、ようやく織田信長は、浅井長政の謀反が事実だと認めます。そして織田信長は、京都への撤退を余儀なくされました。幾多の戦を経て「朝倉義景」が足利義昭に和議を嘆願したことにより、両者の戦いは一時休戦することになったのです。
浅井・朝倉許すまじ!報復で比叡山を焼き討ちに
比叡山延暦寺
1571年(元亀2年)浅井・朝倉勢との休戦から1年後、織田信長は比叡山の「延暦寺」(現在の京都と滋賀の県境に位置する寺院)への攻撃を開始します。
比叡山に逃げ込んだ浅井・朝倉軍を匿ったのは、延暦寺の僧兵。以前から延暦寺の僧は、肉食や禁制であった女人を入山させるなど、京都の鎮守であるにもかかわらず仏門の道から外れ、勝手な振る舞いをしていました。
織田信長は熱心な仏教徒ではありませんでしたが、浅井・朝倉軍を匿ったことと併せて、延暦寺を敵とみなしたのです。
仏堂や神社を破壊・焼き尽くし、山下にいた老若男女の首を1人残らず刎ねていきます。比叡山には、数千もの死体がそこらじゅうに転がり、凄惨な光景が広がっていました。
一向一揆の制圧!付いたあだ名が第六天魔王
浅井・朝倉軍を討伐した織田信長は、足利家と敵対する三好家と戦っていましたが、大坂本願寺が突如挙兵し、各地で一向一揆が勃発します。
織田信長は、本願寺と一向一揆の平定に追われることに。1574年(天正2年)には、伊勢長島(現在の三重県桑名市)で起こった「長島一向一揆」を鎮圧。この時、一揆勢は拠点に立てこもり、織田信長に助命を請いますが、織田信長はこれを拒否。「悪人たちは兵糧攻めにして、これまでの罪や悪行に対する鬱憤を晴らす」と述べ、風雨に紛れて逃げ出そうとした男女1,000人を捕らえて斬り殺します。
こうして織田信長は、各地の一揆を平定し、11年の歳月をかけて大坂本願寺を降伏させました。
延暦寺の焼き討ちや、一向一揆での織田信長の所業から、僧兵や一揆衆は織田信長のことを「第六天魔王」と呼ぶようになります。第六天魔王とは、仏道修行においての敵、すなわち「天魔」(てんま:人心を惑わす悪魔)のこと。僧兵や歯向かってきた人びとを容赦なく焼き討ちした織田信長の残虐さは、仏教徒にとってまさに天魔だったと言えます。
武田信玄からの手紙に対抗意識「我こそは第六天魔王織田信長」
武田信玄
一方で、第六天魔王という呼び名に対して織田信長はまんざらでもなかったようです。延暦寺は、焼き討ちを受けたあと、仏門に入っていた「武田信玄」に庇護を求めており、武田信玄は非難の意をこめて織田信長に手紙を送っています。
この手紙では、武田信玄は自らを「天台座主沙門」(てんだいざすしゃもん:当時の日本仏教で最も強い権力を持っていた天台宗の代表)としたためており、これに対抗意識を燃やした織田信長は、手紙を返す際に「第六天の魔王信長」と記載したのです。
仏教の代表を自称した武田信玄に対して、仏教の敵を自称した織田信長。これ以上にない皮肉の効いた返しは、織田信長の度胸が据わった性格ぶりを示す逸話となっています。
天下人となった織田信長の末路
1575年(天正3年)、織田信長は「長篠の戦い」で武田軍を相手に、戦場において日本史上初めて火縄銃を導入。結果は、織田信長の圧勝。武田軍を圧倒的な力で打ち倒した織田信長はその後、朝廷から「権大納言」、「右近衛大将」の官位を賜り、事実上の天下人となります。翌年の1576年(天正4年)には、琵琶湖の傍に「安土城」の築城を開始。そして、織田信長にとって幾度目かの試練がこの年から始まりました。
「第三次信長包囲網」と言われる、全国各地の大名らによる織田信長への侵攻が開始。京都を追放された足利将軍や、本願寺の僧兵をはじめ、越後国の上杉軍、中国地方の毛利軍、さらに家臣であった丹波国「波多野秀治」、但馬国「山名祐豊」(やまなすけとよ)らが相次いで反旗を翻します。
織田信長は、自身の家臣らを各地へ派遣し、次々と鎮圧。1570年(元亀元年)に浅井・朝倉軍による「第一次信長包囲網」から端を発した10年にも亘る「反信長連合軍」との戦いは、織田信長の重臣による裏切りと共に終焉を迎えます。
1582年(天正10年)6月、安土城から上洛した織田信長は「法華宗本門流」(ほっけしゅうほんもんりゅう)の大本山「本能寺」で、重臣「明智光秀」に襲撃されました。火が放たれた寺院の中で織田信長は自害。享年49歳。
討ち取るべき相手を失った反信長連合軍は、織田信長の死をもって鎮静化しました。織田信長の意志はその後、生涯一度も裏切らなかった「豊臣秀吉」や「徳川家康」に受け継がれることになります。
織田信長と明智光秀
明智光秀
織田信長と明智光秀は、足利義昭を上洛させる際に出会ったと言われています。当時足利義昭は近隣の戦国諸大名に、上洛と将軍就任の後ろ盾になってくれるように頼んでいました。このとき頼ったうちの1人が、当時明智光秀が仕えていた朝倉義景です。
しかし、朝倉義景は上洛に乗り気ではなく、明智光秀が力を持ち始めた織田信長を紹介する運びとなりました。このとき、足利義昭と織田信長のパイプ役として、明智光秀は織田信長と出会ったのでしょう。
織田信長のもとで、明智光秀は頭角を現わしていきます。2人の関係性を表わす上で欠かせないのが、「金ヶ崎の退き口」です。義弟であった浅井長政に裏切られ、浅井・朝倉連合軍に挟み撃ちにされそうになった織田信長は、撤退を決意しました。そのときに最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊・殿(しんがり)を任せた家臣の1人が、明智光秀だったのです。織田信長は、この部隊の活躍によって、無事撤退し生き延びることができました。
「比叡山焼き討ち」も欠かせません。織田信長は、敵である浅井・朝倉氏を匿ったとして、比叡山焼き討ちに踏み切り、これに明智光秀も参加していました。織田信長は功労の結果として、明智光秀に比叡山延暦寺の遺領を与えるとともに、坂本城築城を許可します。織田家の家臣が居城を造る許可を与えられるのは、明智光秀が初めてのことでした。
この頃、足利義昭と織田信長の関係は悪化。当時2人の臣下だった明智光秀ですが、織田信長の直臣となり、足利義昭とは袂を分かちました。
織田信長と明智光秀の信頼関係の深さを表わすエピソードは、いくつもあります。織田信長は家臣・佐久間信盛に送った書状で、「丹波は明智光秀が平定し、天下に面目をほどこした」と褒め称えました。豊臣秀吉や柴田勝家よりも先に明智光秀の名前を挙げるほど、織田信長が認めていたことが分かります。
明智光秀も、「瓦礫のように落ちぶれていた自分を召し出し、その上莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」と記していました。
このように信頼関係が強かったように見える2人ですが、明智光秀がこう書き残した1年後に、「本能寺の変」が起こります。
明智光秀が主君である織田信長に謀反をはたらき、自害に追い込んだのです。真相は闇に包まれており、明智光秀が天下統一を狙っていたという野望説や、日頃織田信長から酷い扱いを受けていた明智光秀が恨みをもって謀反を起こしたという怨恨説、誰かに頼まれたという黒幕説、織田信長の四国征伐を止めるためだという四国説などはあるものの、定かではありません。また織田信長の遺体も見つかっておらず、多くの謎を残したままです。
戦国の世で、天下統一を目指していた織田信長と、それを支えていた明智光秀。この2人の関係は、明智光秀が織田信長を死に追いやるという形で絶たれてしまったのです。
織田信長の家系図
三英傑の1人、織田信長の家系図を紐解くと、明智光秀や豊臣秀吉との繋がりを見ることができます。織田信長の曽祖父からその子孫までを辿ってみましょう。
織田信長の家系図
織田信長の人物相関図
織田信長の生涯にかかわった人物は数多くいますが、ここでは特に重要な人物を「人物相関図」で分かりやすくご紹介します。
織田信長の人物相関図
時代と用途によって使い分け?織田信長が使った家紋
家紋は、氏族のルーツを表す紋章。織田信長は、時代と用途によって家紋を使い分けていました。
織田家の家紋「織田木瓜紋」
織田木瓜紋
大元となる織田家の家紋は「木瓜紋」(もっこうもん)で、木瓜(ぼけ)の花や、胡瓜の切り口を図案化した物です。
木瓜紋は、もともと神殿や宮殿で使っていた御簾(みす:すだれ)上部の帽額(もこう:御簾の上部に飾る横長の幕)に付けられた円形の模様にちなんでおり、帽額の文様は、鳥の巣を上から見た形に見えるため、「窠紋」(かもん)とも呼ばれます。
高貴さと富を象徴する家紋「二つ引両紋」
二つ引両紋
「引両紋」とは、円の中に1~7本の線を引いた家紋のこと。この二つ引両紋(ふたつひきりょうもん)は、室町将軍家・足利氏の家紋として使われていました。鎌倉幕府を破り、京都に室町幕府を開いたのが「足利尊氏」です。
「引両」は「引竜」とも書き、線がふたつ書かれた二つ引両紋は、雌雄の竜が絡み合って昇天する姿を現しており、天下を取ることを意味していると言われています。
なぜ足利氏の家紋を織田信長が使っていたのか、それには次のような経緯がありました。
当時、室町幕府では、三好家によって13代将軍「足利義輝」が自害に追い込まれる事件が発生。これに対して足利義昭が幕府再興のために上洛を目指します。それを支援していたのが織田信長。織田信長に擁されながら、足利義昭は無事に上洛を果たして15代将軍となりました。この時の功績が認められ、足利義昭から織田信長へ与えられたのが二つ引両紋です。
天皇家と国家の象徴「五三の桐紋」(ごさんのきりもん)
五三の桐紋
五三の桐紋は、二つ引両紋と同じく、足利義昭が織田信長に与えた家紋。桐は皇室を象徴する家紋で、鎌倉時代になると後鳥羽天皇が足利尊氏に家紋として下賜しています。
このように天皇から将軍、将軍から家臣というように、武功として家紋が贈られるようになりました。
なお、桐紋は豊臣秀吉にも下賜されています。五三の桐紋は、明治時代になってから、朝廷の政府という意味でも用いられるようになったため、現在は内閣府でも使われている身近な家紋です。
経済力の象徴「永楽通宝紋」(えいらくつうほうもん)
平家末裔を強調・平清盛の家紋「揚羽蝶紋」(あげはちょうもん)
揚羽蝶紋
揚羽蝶紋は、「平清盛」、ひいては平氏を象徴する家紋。織田信長が揚羽蝶紋を使った理由は、平氏と源氏が交互に天下を治める必要があると考えたためです。
当時の政権は、室町幕府足利氏にありました。足利氏は源氏の流れを汲むため、織田信長は自身を平家の末裔と称し、足利氏に取って代わろうとしたのです。
戦国の世を全力で駆け抜けた!織田信長の名言集
「攻撃を一点に集約せよ、無駄なことはするな」
これは効率性を重視した織田信長の言葉。何か目標を達成したい場合は、あれこれと手を出すのではなく、正しい情報と効率性に基づいて、ここぞと思うことに専念することが肝心であると述べています。
目標達成のために何をするかを定めることはもちろん大切なのですが、それ以上に、何をしないかを決めることも大切だと断言したこの言葉は、とても現代的です。
「必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ」
織田信長は、人間の一生の短さを謳った敦盛を好んで舞ったように、人が一生のうちに達成できることは数少なく、だからこそ全力で生きることの重要性を知っていました。
現代では、必死になることがあまりないかもしれませんが、物事に対して一生懸命に行なったあとの達成感は、何にも変えがたいもの。その積み重ねこそが「生きること」の本質と言えるのです。
「理想を持ち、信念に生きよ。理想や信念を見失った者は、戦う前から負けていると言えよう。そのような者は廃人と同じだ」
理想や信念がないまま人生を過ごすことほど、味気ないものはありません。命のやり取りが通常であった戦国の世を生きた織田信長は、このことに早くから気付いていました。理想や理念があるからこそ、必死に生きることができるのであり、その人生も輝きを持つのだと織田信長は教えてくれるのです。
天下布武という夢を追いかけ、49年の歳月を一気に駆け抜けた織田信長。織田信長は、家督を継ぐまでの時期は悪友と悪ふざけをして「うつけ者」と呼ばれていましたが、織田家当主となってからは、リーダーとしての気質を発揮しています。
織田信長の生き方や思想は、現代でも通じるものがあり、今なお多くの人々を惹きつける理由のひとつになっています。
織田信長の政権思想 天下布武
織田信長は、「天下布武」(てんかふぶ)と描かれた朱印(書類へ使用するサインのひとつ)を使用していました。
当時、文書に使用された印には、主に2種類が存在し、ひとつは「花押」(かおう)と呼ばれる印章。そして、もうひとつが「朱印」です。朱印は、花押の代わりに使用され、朱印が押された文書のことを「朱印状」と呼びます。
天下布武は「天下に武を布[し]く」と読むことができるため、織田信長は「武力を行使して天下を統一する」という意志を示す目的で、天下布武という言葉を朱印に用いていたのではないかというのが現在の通説です。
天下布武の印を使用し始めた頃の織田信長は、尾張国(現在の愛知県西部)と美濃国(現在の岐阜県南部)の2ヵ国しか領有していませんでした。
また、甲信越地方には「武田家」や「上杉家」、大坂には「石山本願寺」など、強敵に囲まれていた時代でしたが、織田信長はこの時期から天下統一を見据えていたため、天下布武の朱印を使用し始めたのではないかと推測されます。
「織田信長 朱印状 池田勝三郎 他六名宛 消息」は、1569年(永禄12年)4月20日に、織田信長が7名の家臣「池田勝三郎[池田恒興]」(いけだかつさぶろう/いけだつねおき)、「津田九郎左衛門」(つだくろうざえもん)、「菅谷右衛門/菅屋長頼」(すがやうえもん/すがやながより)、「平手甚左衛門」(ひらてじんざえもん)、「長谷川与次」(はせがわよじ)、「山田三左衛門」(やまださんざえもん)、「丹羽源二郎」(にわげんじろう)へ宛てて書いた、天下布武の朱印が押印された朱印状です。
「織田信長」の朱印状を観る
織田信長 朱印状(池田勝三郎 他六名宛 消息)
所蔵刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
本朱印状が書かれた当時、織田信長は畿内(京都近辺の山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国を指す呼称)を平定したばかりだったため、一度京都から美濃国へ帰還しようとしていました。
しかし、その隙をついて京都にあった足利義昭の御所を「三好三人衆」(みよしさんにんしゅう:三好長逸[みよしながやす]、三好宗渭[みよしそうい]、岩成友通[いわなりともみち])、及び三好三人衆と共謀した「斎藤龍興」(さいとうたつおき)が襲撃。これを聞いた織田信長は急いで京都へ戻り、足利義昭のために新たな御所を建造します。
そのあと書かれたのが本朱印状で、「畿内については一刻も早く確実に平定するよう指示したため、これから美濃に帰還する予定である」、「自分が美濃に帰るまでは、少しも油断しないようにと皆に伝えよ」などといったことが書かれています。
なお、天下布武という言葉自体は織田信長が自ら考案したのではなく、織田信長に仕えていた禅僧「沢彦」(たくげん)が進言した言葉とする説が存在。また、この説と併せて天下布武の「武」とは、単なる「武力」という意味ではなく、中国の春秋時代の歴史書「春秋左氏伝」(しゅんじゅうさしでん)にある「七徳の武」という言葉から来ている説が唱えられることがあります。
七徳の武とは、「禁暴」(暴力を禁じる)、「治兵」(戦争をしない)、「保大」(国を保つ)、「定功」(功績が認められる)、「安民」(民が安心できる)、「和衆」(皆が仲良くできる)、「豊財」(財を豊かにする)という7つの徳のこと。春秋左氏伝には、「7つの徳を有した者が天下を治めるにふさわしい」と記されています。
織田信長が掲げた天下布武は現代でも、歴史ファン向けのグッズやアプリゲームの名称に使用されるなど、様々な形で目にする機会が多い言葉です。