畳の縁を踏んではいけない理由
畳の縁や敷居は結界の意味がある
畳の縁(へり)を踏んではいけないと子供の頃に教わった人は多いでしょう。もしくは、敷居を踏んではいけないと言われたのではないでしょうか。それには様々な理由があります。
理由のひとつとして挙げられるのが、敷居は家の結界を意味しているということです。この思想は日本だけではなく、アジア特有の思想として各国で見受けられます。敷居は聖と俗、外界と内界との境目として聖なる存在です。家の敷居から中に入ったら、相手の聖域に入っていることを意識して失礼のないようにしなければなりません。
畳も同じく主人と客との境目、上座と下座の境目。結界を踏む行為は、格式を無視した失礼な行為になるので禁忌とされています。また、その他の敷居を踏む行為を禁ずる理由として、家の構造に悪影響を与えるという事情もあるのです。
畳縁の模様にも深い意味
畳縁
畳の長辺に縫い込んだ布の部分を畳縁(たたみべり)と言います。絹や綿・麻を使い、畳表と畳床を合わせるために一緒に織り込んだものです。
縁を踏んではいけない理由のひとつとして、縁が傷むのを避けるためということがあります。畳よりも弱い素材が使われており、植物で染めていたために昔は特に傷みやすいのが実状でした。
現代の畳縁は、単色の物や単一な模様が一般的です。古来より日本では畳縁の模様にも意味がありました。平安時代に定められた法典「延喜式」(えんきしき)には、畳縁の格式が定められています。繧繝縁(うんげんべり)は、天皇・上皇・東宮・中宮のみが使用できる畳縁です。繧繝縁を最上級として、高麗縁(こうらいべり)・紫縁・黄縁の序列があります。公家社会においては、畳縁で序列を表していたのです。
畳縁に家紋を入れていた
紋縁
江戸時代の武家社会では、紋縁(もんべり)という家紋入りの畳縁を使うようになりました。
家の格式や権威に重きを置く武士にとっては、家紋を踏む行為は決して許されません。
日本語には「踏みにじる」という言葉があるように、踏む行為は相手への侮辱を表しています。
特に格式にこだわる武家社会では、家紋を踏む行為は現代と比べ物にならないほどの禁忌であったのです。公家・武家両社会とも畳縁は、権威を表す象徴として大事にされていました。
書院造大広間の畳縁
鎌倉時代後期から定着してきた武家屋敷は書院造と言い、来客対応のために考え出された書院と言う部屋が設置されています。現存する二条城二の丸の書院造大広間を見ると、二の間・三の間・四の間など何部屋もつながっていたことが分かります。
部屋をつなげていた理由は、対面する武士の格差を表すためでした。床の間を背にした一の間にその家の主人(将軍)が座ります。そして、対面する者が向かい合って座りますが、対面する者の格式が低くなればなるほど二の間、三の間など遠くに座らなければいけません。その格式を分かりやすくするために部屋の仕切りに段差を設け、欄間(らんま)を設置していました。
もっと細かく格差を表していたのが畳縁です。座るべき場所は武士の家格によって、縁を境目として決められていました。江戸城でも同じことが行なわれており、大名が勢揃いする年中行事があるときは、大広間・大廊下・帝艦の間などの畳の縁ごとに座るべき場所が決められていたのです。
厳格な格差社会であった武家社会では、畳縁が聖域のような役目をはたしていました。もちろん家紋を入れ込んでいる畳縁を踏む行為自体が許されませんが、聖域を表す畳縁と言う意味でも、踏み付けてはならない物であったのです。
下から刺されないように
武士は、自宅にいても他家を訪れているときも油断をしてはいけません。戦乱のない江戸時代においても、武士道としていつ襲われても良い心構えが必要とされていました。
畳と畳の間や敷居との接点は、床下に潜む敵から狙われやすい場所。畳と畳の隙間から射す光の加減で床上にいる人の存在が分かりやすいため、隙間から刃物を差し込みやすいのです。己の気配を下に潜んでいる者に分からせないにように、畳縁は踏んではいけません。座るときも畳縁を避けて座ることによって、武士は身を守っていたのです。
武家社会では男も女も、自己の身に何事か良くないことが起こった場合は、「自分に隙があった」と言って自らの非を責めます。畳縁は下からの攻撃を受けやすいと言われているにもかかわらず、その攻撃によって負傷することや死に至ることは、武士にとってこの上もない恥となるのです。武士の作法は、食事のときや寝るときの姿勢に至るまで、敵に襲われたときにすぐ対応できるような作法が定着していきました。
油断は武士の恥
武士にとって急襲されて殺されることは恥ずかしいことでした。油断した自分が不覚だったことになるからです。そのため戦国武将は常に細心の注意を払いながら行動をしていました。
武田信玄
例を挙げるならば、武田信玄が代表的な武将でしょう。慎重さにおいては、類を見ないほどの徹底ぶりです。
武田信玄は館のトイレを自分専用に作りました。それは6畳もある広いトイレで、畳が敷き詰められていました。
なぜ広くしたかと言うと、敵の急な襲来から身を守るため。広ければ外から刃を差し込まれても届きませんし、自分自身も防御の態勢を取りやすくなります。その上、武田信玄がトイレにいる間は家臣に外を守らせていました。
武田信玄は用を足すためだけではなく、トイレに長時間こもって戦略を練っていたとも言われています。トイレで用を足す行為ひとつにも、武田信玄はこのように油断のない状態で行なっていたのです。
小笠原流礼法では畳縁を踏んでも良い!?
室町時代から続く武家作法の流派として「小笠原流」があります。武家の作法でありながら、畳縁を踏んではいけないという作法はありません。
小笠原流では畳の上の歩き方として、膝行(しっこう)・膝退(しったい)という作法を守ります。蹲踞(そんきょ)の状態で、膝を曲げたままつま先で歩くことを膝行と言い、膝退は、そのままの姿勢で後退することです。膝行・膝退で歩く場合、畳縁を踏まないという行為は大変不自然になるために、小笠原流では畳縁は踏んでも良いことになっています。踏んではいけないのは敷居であり、家の構造が歪んでしまう理由からです。
躓かないように
畳縁は畳同士の接点になります。畳替えをしてからしばらくたつと、接点の部分が持ち上がったり、片方だけ飛び出したりします。お盆を持ってお茶を運ぶとき、足元はよく見えませんが、段差が生じてしまう畳の縁は踏まないように歩く感覚を身に付けておけば躓く心配はありません。マナーとしてだけでなく、危ないから踏まないという理由もあったのです。