伊達政宗の歴史
伊達政宗の家督相続!奥州覇者への道
伊達政宗の家督相続
伊達政宗、四面楚歌の危機に!
1585年(天正13年)、伊達輝宗が二本松城主「畠山義継」(はたけやまよしつぐ)の計略により没したのち、伊達政宗は畠山義継の子「二本松義綱」(にほんまつよしつな)を攻めますが、周囲には蘆名氏をはじめとする南奥羽の諸大名が守りを固めていました。1586年(天正14年)、伊達政宗は畠山氏及び奥羽大名との合戦を経て、畠山氏を滅ぼします。
しかしこの直後、伊達政宗は友好関係を保っていた出羽国山形城「最上義光」(もがみよしあき)と敵対関係に陥りました。伊達政宗の母は、最上義光の妹「義姫」(よしひめ)で、最上義光と伊達政宗は伯父と甥の関係にありますが、両者は庄内地方の大宝寺氏を巡って対立します。
さらに伊達政宗の家臣・鮎貝氏が最上側に寝返る事態にまで発展し、それまで維持されてきた最上氏と伊達家の同盟関係は完全に破綻しました。こうして最上義光、大崎氏の当主「大崎義隆」(おおさきよしたか)、「蘆名義広」(あしなよしひろ)という奥羽の3大名と、常陸国(現在の茨城県)「佐竹義重」(さたけよししげ)が伊達包囲網の連合軍を形勢し、伊達政宗の敵となったのです。
義姫
まさに四面楚歌の状況となり、最上義光と伊達政宗が衝突しようとするそのとき、説得をしに輿に乗って駆けつけたのが、伊達政宗の母であり最上義光の妹であった義姫でした。
最上義光と義姫は兄妹仲が良く、日頃から可愛がっていた義姫の説得に最上義光は応じて、伊達政宗は衝突を避けることに成功。
そして、最上義光が参戦しなくなったことで連合軍の足並みは揃わなくなり、伊達政宗は1589年(天正17年)の「摺上原の戦い」において、蘆名氏を滅亡に追い込みました。家督相続をしてからわずか2年で、伊達政宗は奥州平定を果たしたのです。
奥羽に迫る豊臣秀吉の手。奥両国惣無事令と小田原攻め
豊臣秀吉
伊達政宗が奥州を掌握して領土を広げていた一方で、「本能寺の変」により織田信長が没したのち、「羽柴[豊臣]秀吉」は全国統一に動いており、1585年(天正13年)には四国を、そして1587年(天正15年)に九州を平定して、全国統一まで関東と東北地方を残すのみという状況でした。
なおこのとき、豊臣秀吉は、北条氏と伊達氏を豊臣支配下に置くための先手をすでに打っていました。1587年(天正15年)、奥羽・出羽国に対して出した「惣無事令」(そうぶじれい)です。
惣無事令とは、大名間での勝手な私戦を禁じた令ですが、伊達政宗は1589年(天正17年)に蘆名氏攻めを行なったことで、惣無事令を違反したため糾弾されることになります。
そして、次に関東・北条氏側で惣無事令の違反が起こりました。豊臣秀吉は、北条氏討伐の恰好の口実ができたことで、北条氏に宣戦を布告。1590年(天正18年)、豊臣秀吉は諸大名に「小田原征伐」へと参陣するように呼びかけます。
豊臣秀吉も舌を巻いた!伊達政宗の弁明術
小田原征伐遅参。現れた伊達政宗は「死に装束」だった
豊臣秀吉は、小田原征伐で北条氏を滅ぼしたあと、恭順の意向を示さない陸奥・出羽の諸大名と、伊達政宗を討つために会津に攻め込むつもりでいました。その矢先に伊達政宗が小田原に遅れて参陣したため、豊臣秀吉は伊達政宗を討伐する絶好の機会を得られたのです。
伊達政宗は、箱根の山へ幽閉され、そこで豊臣秀吉の忠臣「前田利家」の詰問を受けました。すると伊達政宗は、「千利休に茶の手ほどきを受けたい」と言い出します。この話を聞いた豊臣秀吉は「処刑されるかもしれないと言うのに、なんと豪胆な男だ」と関心を抱き、伊達政宗と面会することにしました。
そして、現れた伊達政宗の姿に豊臣秀吉や諸将は驚きます。伊達政宗は、処刑を覚悟して死に装束を着用していたのです。豊臣秀吉は、携えていた杖を伊達政宗の首へ突きつけて、「もう少し遅ければ首が飛んでいたぞ」と言い放ちました。
こうして伊達政宗は、改易や処刑は免れたものの減封処分を下され、伊達政宗が抜けた会津には、豊臣秀吉の配下「蒲生氏郷」(がもううじさと)が収まることになります。
伊達政宗の奇策!鶺鴒の花押で開き直って弁明
小田原征伐後に関東を平定した豊臣秀吉は、東北地方も「奥羽仕置」(奥羽の大名の配置換え)により全国統一に成功。その一方で、小田原征伐の際に豊臣秀吉へ協力しなかった結果、領地を失う大名も少なくありませんでした。
特に「大崎義隆」(おおさきよしたか)と「葛西晴信」(かさいはるのぶ)は、大きな勢力で召し抱える家臣も多かったため、領地召し上げにより多くの家臣が路頭に迷うことになったのです。
そして、旧領地に入ってきたのが、「木村吉清」(きむらよしきよ)と「木村清久」(きむらきよひさ)父子の成りあがり大名でした。大崎氏と葛西氏は両家とも名門であり、にわか仕込みの大名にかつての自分達の領地を荒らされることは許しがたいこと。大崎氏、葛西氏の遺臣らは「大崎・葛西一揆」という反乱を起こし、木村父子は佐沼城へと幽閉されることになりました。
このとき、蒲生氏郷は一揆鎮圧のために伊達政宗に協力を依頼しますが、軍を出す直前で驚くべきことが判明します。大崎・葛西一揆に伊達政宗が一枚噛んでいるというのです。
なぜこのことが発覚したかというと、蒲生氏郷のもとへ伊達政宗が書いたと見られる書状が持ち込まれたからでした。豊臣秀吉は、この書状についての真偽を問いただすために、伊達政宗に上洛を要請します。それに応じた伊達政宗は、再び死に装束姿で京都に上がりました。
豊臣秀吉は、証拠として持ち込まれた書状を伊達政宗に突きつけて真偽を問いただしますが、伊達政宗は自分が書いた物ではないと言い張ります。「自分が書いた書状の花押は、目の部分に針で穴を開けた鶺鴒[せきれい:長い尾を持つ鳥類]を用いるからだ」と主張しました。蒲生氏郷のもとへ持ち込まれた書状には、針の穴は開いていません。伊達政宗は、これは自分を陥れる偽文書である、と釈明したのです。
豊臣秀次事件!仲良くしていたら謀反を疑われる
豊臣秀次
伊達政宗と豊臣秀吉の揉め事はこれだけではありません。1594年(文禄3年)、豊臣秀吉の甥であり、次期関白の座が約束されていた「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)が、豊臣秀吉によって切腹させられる事件が起こります。
豊臣秀吉は晩年まで子宝に恵まれず、後継者を豊臣秀次にと決めていました。しかし、「淀殿」(よどどの)との間に「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が生まれると、血縁関係にある豊臣秀頼に家督を譲りたいと考え、豊臣秀次を謀反者に仕立てあげたのです。
なおこのとき、伊達政宗は次期関白になると決まっていた豊臣秀次と親しくしていたために、連座(れんざ:芋づる式に罪に問われること)になる恐れがあり、その予想は的中して事情聴取が行なわれました。
そして伊達政宗は、ここでも持ち前の豪胆さを発揮します。詰問された伊達政宗は、「確かに豊臣秀次とは仲良くしていたが、それは太閤殿下[豊臣秀吉]が豊臣秀次にすべてを譲ると言うので豊臣秀次に奉公していたのであり、これが罪になると言うのなら仕方がないので、私の首を刎ねたら良い」と言い放ったのです。
また、伊達家家臣「湯目景康」(ゆのめかげやす)や「中島宗求」(なかじまむねもと)らによる直訴の後押しもあり、伊達政宗は罪に問われることなくやり過ごすことに成功しました。
仙台藩主として東北繁栄の礎を築く
関ヶ原の戦い
徳川家康
1599年(慶長4年)、豊臣秀吉死去後に伊達政宗は「徳川家康」に忠誠を誓い、伊達政宗の長女「五郎八姫」(いろはひめ)と、徳川家康の6男「松平忠輝」(まつだいらただてる)との婚約を結びます。
徳川家康は関東管領として領土を拡大していましたが、これに危機感を抱いた「石田三成」ら奉行衆が、牽制役として「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)を越後から会津に転封しました。
1600年(慶長5年)、上杉征伐のための包囲網が展開されます。このとき、伊達政宗は徳川家康から「戦後の報酬には伊達政宗が自ら切り取った領土をすべて与える」と書かれた約束状「100万石のお墨付き」を受けていますが、これは伊達政宗が上杉景勝との戦いに集中できるようにと配慮したものでした。
上杉包囲網には、最上義光を含めた奥州大名も参戦し、徳川家康の背後を突かせないように画策。一方で伊達政宗は、この戦いに乗じて領地拡大を企んでいました。独断で一揆を扇動するなど、勝手な振る舞いをしていたことが徳川家康に知られた結果、戦後の恩賞追加の希望はほとんどを退けられ、62万石の領地を与えられるに留まったのです。
日本初の外交交渉を試みた「慶長遣欧使節」
伊達政宗は、政治・軍事に精通するだけではなく文化人でもありました。仙台藩初代藩主に収まった伊達政宗は、東北の都作りに着手します。仙台が古代陸奥国府のあった宮城郡に位置することから、名所や旧跡の再生と復興に努めました。また、仏教美術においては上方の絢爛豪華な桃山文化の手法を吸収すべく、畿内から随一の職人を呼び寄せます。
伊達政宗は、国内だけではなく西洋世界にも意識を向けており、1613年(慶長18年)に、仙台藩とスペインの通商交渉のため「遣欧使節」(けんおうしせつ)を結成。フランシスコ会宣教師「ルイス・ソテロ」と、伊達政宗の家臣「支倉常長」(はせくらつねなが)をはじめとする180名余りの使者を、「ヌエバ・エスパーニャ」(現在のメキシコ)、「スペイン」、「ローマ」へ派遣しました。
これは「日本人がヨーロッパへ赴いて外交交渉をした」という点において日本初の外交でしたが、交渉は幕府によるキリスト教弾圧により失敗に終わります。帰国したあと、支倉常長は間もなく死去し、ルイス・ソテロは長崎へ密入国を試みて捕らえられ、火刑により殉教しました。
ヨーロッパとの外交交渉は失敗に終わりましたが、伊達政宗はその後も田畑を整備し、運河を造って、江戸へ米を出荷するための渡し口として「石巻港」を開くなど、仙台藩を発展させるために尽力します。仙台藩から出荷された米は江戸で広く流通し、江戸で消費される米の3分の1は仙台藩で作られた「奥州米」であったと言われており、仙台藩はこうして東北の要として機能するようになったのです。
伊達政宗の人物相関図
伊達政宗の生涯にかかわった人物は数多くいますが、ここでは特に重要な人物を「人物相関図」で分かりやすくご紹介します。
伊達政宗の人物相関図
多様な家紋を使い分けた伊達家の家紋
仙台笹(竹に雀紋)
仙台笹(竹に雀紋)
「仙台笹」(竹に雀紋)は、伊達家の家紋の中でも特に有名。
その昔、伊達政宗の祖父「伊達稙宗」(だてたねむね)の3男「伊達実元」(だてさねもと)が、関東管領家の名門・上杉家に養子に行く話が出たときに贈られた家紋です。
伊達実元の縁談は直前に破談となりましたが、伊達家ではもととなった竹に雀紋を改変して家紋に用いるようになりました。
三つ引両紋
九曜紋
九曜紋
「九曜紋」(くようもん)は、中央に大きな円、その周りに8つの小さな円を配置した家紋で、星と天体の運行をかたどった星紋のひとつ。中央の大きな円は太陽を表し、周囲の8つの円は太陽系の惑星をかたどっています。
九曜は平安時代に多用されており、特に牛車の車紋として描かれました。九曜紋は、「細川忠興」(ほそかわただおき)が家紋として使用しており、それを見た伊達政宗が細川忠興に頼み込んで使用し始めたという逸話が残っています。
五七桐紋
五七桐紋
「五七桐紋」(ごしちのきりもん)は、現在の日本政府の紋章としても用いられている身近な家紋。
桐は、鳳凰が止まる木として神聖視されており、天皇家から武家に下賜される代表的な家紋でした。伊達政宗の他に、織田信長や豊臣秀吉も天皇から下賜されたことから、家紋として使用しています。
十六葉菊紋
十六葉菊紋
「十六葉菊紋」(じゅうろくようぎくもん)は、もともと天皇家が使用していたと言われる家紋。
五七桐紋と同じく、伊達政宗はこの家紋を豊臣秀吉から下賜されており、豊臣秀吉は天皇から十六葉菊紋を下賜されたという経緯があります。
牡丹紋/蟹牡丹紋
蟹牡丹紋
「牡丹紋」(ぼたんもん)は、公家五摂家のひとつ「近衛家」が使っていた牡丹紋を、仙台藩20代藩主「伊達綱村」(だてつなむら)が譲り受けた家紋。
のちに仙台藩21代藩主「伊達吉村」(だてよしむら)がこの牡丹紋を改良し、牡丹が蟹を描いているような文様の「蟹牡丹紋」(かにぼたんもん)を生み出しました。蟹牡丹紋は、江戸時代の伊達家を代表する家紋となっています。
処世術に長けた伊達政宗の名言
伊達政宗の名言をご紹介します。
仁に過ぎれば弱くなる。義に過ぎれば固くなる。礼に過ぎればへつらいになる。知に過ぎれば嘘を吐く。信に過ぎれば損をする。
これは「伊達家五常訓」の有名な一節。それぞれの頭文字を取って「仁義礼智信」と言い、「五常」とも呼ばれます。
五常とは本来、儒教における5つの徳目(とくもく:徳を細かく分類した項目)のこと。人が常に守るべき基本的徳目であると言われ、戦国時代において武将の間で広く浸透していた基本理念でした。しかし、伊達政宗はこの五常を逆説的に説いたのです。
「相手を大切にし過ぎると情にもろくなり、自分が弱くなってしまう。正論ばかりに固執すると、頑固になって融通が利かなくなる。礼儀正しい態度もやり過ぎると、相手にとっては嫌味となる。知性が優れすぎていると、理想を叶えるために嘘を吐くようになる。他人を信用し過ぎると、他人からいいように使われて損をする」
五常の教えも、行き過ぎれば返って自分自身を窮地に落とす恐れが出てきます。有名な「論語」の一節「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」をより具体的に説明した本名言は、現代においても参考にできる理念です。
物事、小事より大事は発するものなり。油断するべからず。
大きな事件は、いきなり起こるものではなく、小さな事件が積み重なって起きます。面倒だと後回しにしてしまうばかりか、些細なことに気が付かずに放置していると、いつの間にか取り返しがつかないほど事態が大きくなってしまうこともあるのです。
伊達政宗は、家督を継いだあとの年若い頃に陸奥国(現在の福島県)「小手森城」(おでもりじょう)へ攻め入った際、近隣諸国への見せしめとして城内外にいた将兵のみならず、女中や子供までも残さず撫で斬り(撫でるように斬り捨てること)にしたと言われています。
いずれ自分に仇をなす可能性がある危険因子は、早くに摘み取っておくことが肝心だと、伊達政宗は早い段階から気が付いていたのです。
小さな問題が積み重なり、歴史に名が残るような大戦に発展することは、日本のみならず世界各国でも起きています。不安なことは、対処ができるうちに解決しておくべきという伊達政宗のこの言葉は、時代や環境を問わず多くの人の心に響く名言です。