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朝倉家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

南北朝時代から戦国時代にかけて、直接農民層を支配していた国人領主から戦国大名へ代々右肩上がりで成長していった朝倉家。しかし戦国時代には、織田信長に滅ぼされ、家名は途絶えてしまいました。そんな朝倉家の歴史とともに、ゆかりのある刀剣や甲冑(鎧兜)をご紹介します。

朝倉家の出自と来歴

朝倉家の家紋「三盛木瓜」

朝倉家の家紋「三盛木瓜」

朝倉家は、南北朝時代まで但馬国朝倉庄(たじまのくにあさくらのしょう:現在の兵庫県北部)を拠点とし、全国有数の大名であった斯波家(しばけ)に従っていました。

しかし、斯波家が越前の守護に任じられると、朝倉家も同様に1337年(延元2年)、但馬国から越前国(えちぜんのくに:現在の福井県東部・岐阜県北西部の一部)へ入国。当時の朝倉家当主は、初代「朝倉広景」(あさくらひろかげ)。朝倉広景以降、11代「朝倉義景」(あさくらよしかげ)まで続きました。

7代「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)は、応仁の乱で活躍。応仁の乱が終息へ向かうと同時に、越前一国を手中に収めるべく、次々と戦を起こしました。戦では連勝を重ね、ほぼ全域を平定したところで、越前守護に任じられ大名としての朝倉家が確立したのです。

室町時代から戦国時代に織田信長に滅ぼされるまでの約100年、越前を中心に栄華を極めてきた朝倉家。なかでも城下町である一乗谷は、都のように賑わっていたそうです。民や土地を一番に考え、内政に力を入れた大名として、民衆に好かれていた一族でした。

大名としての栄華を誇った5代当主

大名に出世した朝倉孝景から、8代「朝倉氏景」(あさくらうじかげ)、9代「朝倉貞景」(あさくらさだかげ)、10代「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)、11代「朝倉義景」(あさくらよしかげ)の5代、約100年に亘って、京都の幕府にとって重要な地・越前国を占める大名家として続きました。

朝倉孝景(あさくらたかかげ)

朝倉教景

朝倉教景

朝倉孝景の祖父「朝倉教景」(あさくらのりかげ)と父「朝倉家景」(あさくらいえかげ)の時代、越前の守護大名・斯波家は跡継ぎが絶え、一族の大野家から養子となった「斯波義敏」(しばよしとし)が、家老の「甲斐常治」(かいじょうち)と対立して混迷しました。

越前国内では、斯波家家臣や有力国人の堀江家、そして朝倉家の分家などは斯波家を支持して自立。このため朝倉家と甲斐家は、斯波家の家臣や国人らを排除するなど、激しい内戦が起こりました。

朝倉孝景は1459年(長禄3年)幕府の命により、甲斐家と共に越前に入り、関東出兵を拒否した斯波家を追い落としました。その後、朝倉孝景らは「足利義政」(あしかがよしまさ)の弟、伊豆の堀越公方「足利政知」(あしかがまさとも)のもとへ派遣されます。そして足利政知を補佐した「渋川義鏡」(しぶかわよしみ)の子「渋川義廉」(しぶかわよしかど)が斯波家の当主に起用され、朝倉家と甲斐家は渋川義廉に従うことになりました。

朝倉教景
朝倉教景と、その愛刀についてご紹介します。

朝倉氏景(あさくらうじかげ)
朝倉孝景が没すると嫡男・朝倉氏景が継ぎ、正式に家督継承が認められました。その後、朝倉氏景は国内の大寺社の所領を安堵し、新しい当主になったことを国中に示しました。

朝倉氏景は越前の経済力を背景に、幕府に対する出銭を怠らなかったため、幕府から高く評価されていたのです。しかし父・朝倉孝景が没したわずか5年後の1486年(文明18年)に、38歳で没しました。

朝倉貞景(あさくらさだかげ)
朝倉氏景の子・朝倉貞景は14歳で朝倉家の家督を継ぎ、大叔父「朝倉経景」(あさくらつねかげ)、「朝倉光玖」(あさくらこうきゅう)、「朝倉景冬」(あさくらかげふゆ)らに支えられながら当主の務めを果たしました。

幕府での朝倉家の立場は斯波家の訴訟により不安定でしたが、交渉の結果、幕府の直臣として認められました。一方、朝倉貞景は近隣の実力者である美濃を治めていた斎藤家と縁組みし、長く越前国と美濃国(みののくに)は、政治的に良好な関係を保ったのです。

朝倉経景らが没すると、朝倉景冬の息子「朝倉景豊」(あさくらかげとよ)は、朝倉孝景の四男「朝倉元景」と組んで、当主の朝倉貞景に謀叛を起こします。それに対し朝倉貞景は、1503年(文亀3年)に朝倉孝景の末子「朝倉教景」(あさくらのりかげ)を派遣し、朝倉景豊を滅ぼしました。

朝倉孝景(あさくらたかかげ)
7代当主と同名の10代朝倉孝景の時代になると、数年ごとに隣国に出兵。いずれの戦も当主の朝倉孝景は出陣せず、数ヵ月に亘り一族を派遣しました。これらの出兵の多くは将軍の要請によるもので、各地域の秩序維持のためだったのです。

朝倉家の勢力の拡大に伴い、幕府における朝倉家の位置付けも変わり、守護大名と同格の地位・相伴衆(しょうばんしゅう)に昇進。当時、多くの国々で飢饉や災害、戦乱などによって国内が疲弊し、人民が苦しんだことが伝えられていますが、越前は一度も他国から攻め入られたことはなく、朝倉家の領国は全盛を迎えました。

農業や水産業、手工業など諸産業も発展し、一乗谷(福井県福井市)の町並みや寺院、当主館の整備なども進んだとみられます。

朝倉義景(あさくらよしかげ)

足利義昭

足利義昭

朝倉家最後の当主・朝倉義景の治世は、のちに最後の室町将軍となる「足利義昭」(あしかがよしあき)の越前下向(げこう:都から地方へ行くこと)を境に二分することができます。

前半期は父・朝倉孝景時代からの延長線上にあったため繁栄期。後半期は、織田信長の天下統一に翻弄される動乱の時代でした。

16歳で家督を継いだ朝倉義景は、父祖の供養や赤淵神社(兵庫県朝来市)の顕彰(功績などを世間に知らせて表彰すること)など、当主としての務めを見事に果たし、家臣への知行宛行や寺社領の安堵など内政も充実。棗庄大窪(そうしょうおおくぼ)の浜(福井県福井市三里浜)で犬追物を興行し、また一乗谷では「曲水宴」(きょくすいのえん:水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講する行事)を催すなど、文武両道に秀でた大名でした。

朝倉家の滅亡

織田信長は朝倉家と三好家を敵とする大義名分を将軍・足利義昭に認めさせ、4年に亘って朝倉家を攻撃しました。朝倉義景は一乗谷の戦いの際、一乗谷に居を構えていましたが、劣勢となるや、同名衆(同じ苗字を持ち行動を共にした武士の集団)の首席で従弟の「朝倉景鏡」(あさくらかげあきら)の勧めにより、大野郡(福井県北部)に移ったのです。

1573年(元亀4年)、織田信長は龍門寺城(福井県越前市)を拠点に軍勢を遣わし、8月18日から3日3晩に亘り一乗谷の地域の大半に放火し、朝倉義景の探索を命じました。20日には、裏切った朝倉景鏡の兵に囲まれ、朝倉義景は41歳の若さで自刃。朝倉義景の母「光徳院」と遺子「愛王丸」は生け捕りにされました。

両人の身柄は府中の織田信長のもとへ護送され、織田信長の部下「丹羽長秀」(にわながひで)に預けられましたが、その後、南条郡帰の里(福井県今庄町)にて処刑されたことにより、朝倉家の嫡流は絶えたと言われています。

朝倉家が愛用した刀剣・甲冑

刀剣

籠手切正宗(こてぎりまさむね)
籠手切正宗は、朝倉家に代々伝わった日本刀です。朝倉義景を討った織田信長が戦利品としたあとに、「大津長昌」(おおつながまさ)という小姓に下げ渡されました。大津長昌が討ち死にしたのちは、織田信長・豊臣秀吉の重臣だった「前田利家」(まえだとしいえ)の四男「前田利常」(まえだとしつね)に渡り、加賀藩に秘蔵されました。

応仁の乱の際に、敵将の腕を防具の鉄籠手もろとも切断したという故事が名前の由来となっています。現在は東京国立博物館に収蔵されています。

籠手切正宗
籠手切正宗

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鑑定区分

未鑑定

刃長

68

所蔵・伝来

朝倉家 →
織田信長 →
大津長昌 →
佐野信吉 →
前田利常 →
明治天皇 →
東京国立博物館

一期一振(いちごひとふり)
一期一振は、刀工・粟田口吉光が一生に1振しか作らなかった太刀というのが名前の由来です。元々朝倉家が所有していましたが、朝倉家の滅亡後、毛利家へ渡り、毛利家から豊臣秀吉に献上。

一期一振は大坂城と共に焼けてしまいましたが、徳川家康が越前国・武蔵国(むさしのくに)の刀工「越前康継」(えちぜんやすつぐ)に命じて打ち直されました。

現在は、天皇家に献上された御物として、宮内庁で管理されています。

一期一振
一期一振

吉光

鑑定区分

御物

刃長

68.8

所蔵・伝来

毛利輝元 →
豊臣秀吉

甲冑

朝倉國景着用具足(あさくらくにかげちゃくようぐそく)

朝倉國景の具足

朝倉國景の具足

「朝倉國景」(あさくらくにかげ)は、朝倉義景の孫であったと言われています。朝倉國景はこの甲冑(鎧兜)を身に付けて、大坂夏の陣に参戦したと伝わっています。

現在は、清水園新潟県新発田市)内にある郷土資料館に収蔵されています。

銀箔押二枚折紙頭立兜(ぎんぱくおしにまいおりがみずたてかぶと)

銀箔押二枚折紙頭立兜

銀箔押二枚折紙頭立兜

銀箔押二枚折紙頭立兜は、朝倉義景が所用していたと伝わっています。

銀箔を配したは、2枚の耳のようなあしらいが特徴。

現在は、川越歴史博物館埼玉県川越市)に収蔵されています。