徳川家の歴史と武具(刀剣・甲冑)
徳川家の歴代当主の中で特に有名なのが、戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開いた「徳川家康」。徳川家康は元々、「松平次郎三郎元信」(まつだいらじろうさぶろうもとのぶ)や「松平元康」(まつだいらもとやす)と松平姓を名乗っており、その松平家の祖先は豪族の家臣でした。今回は、徳川家(松平家)の歴史をはじめ、徳川家康と共に戦乱の世で活躍した家臣はもちろん、徳川家や家臣が愛用した刀剣や甲冑(鎧兜)についてご紹介します。
徳川家の出自
徳川家の家紋「三つ葉葵」
徳川家(とくがわけ)の起こりは三河国松平郷(みかわのくにまつだいらごう:現在の愛知県豊田市)ですが、祖先は上野国徳川郷(こうずけのくにとくがわごう:現在の群馬県世良田町)に居を構えていた豪族・新田家(にったけ)の家臣「得川親氏」(とくがわちかうじ)です。
得川親氏が南北朝時代の動乱により、諸国を流浪することになり、松平郷の富豪であった松平太郎左衛門家(まつだいらたろうざえもんけ)の婿となったのが、武家としての松平家の始まり。
その後、「松平泰親」(まつだいらやすちか)、「松平信光」(まつだいらのぶみつ)、「松平親忠」(まつだいらちかただ)、「松平長親」(まつだいらながちか)、「松平信忠」(まつだいらのぶただ)、「松平清康」(まつだいらきよやす)、「松平広忠」(まつだいらひろただ)、「松平元康」(まつだいらもとやす:のちの徳川家康)と続き、松平家最後の当主が徳川家康でした。
徳川家が動乱の戦国の世を巧みに渡り、天下を治めることができたのは、重宝してきた家臣の活躍があったからこそ。徳川四天王のような武人はもちろん、政略に秀でた本多正信(ほんだまさのぶ)をはじめ、僧や商人など、様々な分野の家臣に恵まれました。徳川家康と家臣が強い信頼関係で結ばれ、それが徳川の天下が265年続いた所以と言われています。
松平家の大名への道のり
松平太郎左衛門家は富豪と言われていますが、その財力は分かっていません。しかし、松平信光の代には、岩津城(現在の愛知県岡崎市北部)へ本拠を移し、三河(現在の愛知県の東半分)に進出していることが分かっているため、兵を養うことのできる財力を持っていたはずです。そして松平家は代々、三河旧勢力と戦って地位を築き、台頭していきました。松平清康の代には、本拠を岡崎城(現在の愛知県岡崎市中部)に移し、東三河へ進出。
徳川家康
ところが、松平清康が家臣に刺殺され、土地の領主である地位「国人領主」として勢力を広げてきた松平家の発展は頓挫しました。
松平清康のあとを継いだ徳川家康の父・松平広忠は、10歳で家督を継承。
勢力の縮小や領地が奪われるのを心配した家臣達が、三河の隣国・遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)と駿河国(するがのくに:現在の静岡県東部)を治めていた「今川義元」に助けを求め、今川家に従属することになりました。その松平広忠も24歳の時に家臣に暗殺され、徳川家康が家督を継ぎます。
徳川家に転機が訪れたのは、徳川家康が19歳のとき。「桶狭間の戦い」にて、「織田信長」が今川義元を破ったことで、自由に兵を動かせるようになりました。三河一向一揆を平定したり、今川家を滅亡させたりと、着々と領地と戦力を拡大し、三河を治める戦国大名へと成長していきます。
徳川家康が愛用した刀剣・甲冑
刀剣
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物吉貞宗(ものよしさだむね)
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物吉貞宗は、鎌倉時代末期に活躍した刀工「相州貞宗」が制作した脇差です。名前にも使用されている物吉には、縁起が良いという意味があり、徳川家康が戦場に赴く際に必ず持って行ったと言われています。
現在は、国の重要文化財に指定され、徳川美術館(愛知県名古屋市)に収蔵されています。
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銘
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無銘
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鑑定区分
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重要文化財
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刃長
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33.2
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所蔵・伝来
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徳川家康 →
尾張徳川家
鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう)
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鯰尾藤四郎は、鎌倉時代中期に活躍した刀工「吉光」(通称・粟田口藤四郎)が制作した薙刀で、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)が所有していたましたが、天下を治めた豊臣家へと渡りました。
「大坂夏の陣」で、大坂城と共に消失したため、江戸幕府の専属鍛冶師であった「越前康継」(えちぜんやすつぐ)が薙刀の刃部分を模倣して脇差を作り、同名を付けました。ナマズの尾のふっくらした姿に似ていることからこの名が付けられ、現在は徳川美術館に収蔵されています。
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銘
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吉光
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鑑定区分
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未鑑定
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刃長
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38.6
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所蔵・伝来
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織田信雄 →
豊臣秀吉 →
豊臣秀頼 →
尾張徳川家
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一期一振(いちごひとふり)
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一期一振は、鯰尾藤四郎と同様に、吉光が制作。吉光が制作した1振だけの太刀と言うのが、名前の由来です。元々朝倉家が所有していましたが、朝倉家の滅亡後、毛利家へ渡り、毛利家から豊臣秀吉に献上。一期一振も大坂城と共に焼けてしまい、刀工越前康継が打ち直しました。
現在は、天皇家に献上された御物として、宮内庁で管理されています。
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銘
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吉光
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鑑定区分
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御物
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刃長
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68.8
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所蔵・伝来
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毛利輝元 →
豊臣秀吉
宗三左文字(そうざさもんじ)/義元左文字(よしもとさもんじ)
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宗三左文字は、幾内(現在の奈良県全域、大阪府の大部分、京都府の南部、兵庫県の南東部)を治めていた戦国大名「三好政長宗三」(みよしまさながそうざ)が所持していた太刀です。この宗三から名が付けられ、今川義元に渡った際に義元左文字と改められました。
その後、織田家、豊臣家、徳川家へと渡り、現在は国の重要文化財として、織田信長も祀られている建勲神社(京都府京都市)に収蔵されています。
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銘
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織田尾張守信長
永禄三年五月
十九日義元討捕
刻彼所持刀
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鑑定区分
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重要文化財
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刃長
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67.0
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所蔵・伝来
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三好政長 →
武田信玄 →
今川義元 →
織田信長 →
豊臣秀吉 →
徳川家 →
建勲神社
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甲冑
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金溜塗具足(きんためぬりぐそく)/金陀美具足(きんだみぐそく)
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金溜塗具足/金陀美具足
金溜塗具足は、今川家に従属していた徳川家康が、桶狭間の戦いの前哨戦で織田家との戦時に着用しました。名称にもある金溜塗は、甲冑(鎧兜)に金色の彩漆を塗り、色が鮮やかに映るように透漆を塗る技法。
金陀美具足(きんだみぐそく)とも呼ばれ、現在は、国の重要文化財として久能山東照宮に収蔵されています。
白檀塗具足(びゃくだんぬりぐそく)
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白檀塗具足
白檀塗具足は、金溜塗具足と共に徳川家康初陣に使用された甲冑(鎧兜)で、白檀塗具足は予備の甲冑(鎧兜)として戦場に運ばれました。
名称にもある白檀塗は、金溜塗で使用する彩漆ではなく金箔を塗る技法。
現在は、国の重要文化財として久能山東照宮に収蔵されています。
伊予札黒糸縅胴丸具足(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく)/歯朶具足(しだぐそく)
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伊予札黒糸縅胴丸具足
伊予札黒糸縅胴丸具足は、関ヶ原の戦いのときに徳川家康が着用し、徳川家では将軍の証として、歴代の将軍が就任するたびに制作されました。
名称にもある伊予(現在の愛媛県)の職人が制作した小札(こざね)を、濃い茶色い紐(黒糸)で綴じ付けた甲冑(鎧兜)。
歯朶具足と呼ばれるのは、兜の額部分の前立(まえたて)が植物のシダの葉の形に似ているからです。
現在は、国宝として久能山東照宮に収蔵されています。
南蛮胴具足(なんばんどうぐそく)
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南蛮胴具足
戦国時代に、ヨーロッパから甲冑(鎧兜)がもたらされ、その甲冑(鎧兜)を日本風に模倣して制作されたのが南蛮胴具足です。
関ヶ原の戦いのときに、徳川家康から家臣の榊原康政(さかきばらやすまさ)が南蛮胴具足を拝領し、そのまま榊原家の甲冑(鎧兜)として受け継がれていきました。
現在は、国の重要文化財として東京国立博物館に収蔵されています。
熊毛植黒糸縅具足(くまげうえくろいとおどしぐそく)
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熊毛植黒糸縅具足
熊毛植黒糸縅具足は、胴や籠手(こて)、草摺(くさずり)などに熊の毛が植え付けられています。甲冑(鎧兜)には黒漆が塗られ、小札は濃い茶色の紐で綴じられています。
当時の甲冑(鎧兜)は、防護服であると共にファッションでもあったため、デザインにもこだわっていました。
現在は、徳川美術館に収蔵されています。
徳川家を支えた徳川四天王
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酒井忠次(さかいただつぐ)
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酒井忠次
酒井忠次は、徳川家康の伯母を妻にするなど、松平家からの譜代家臣。酒井忠次は戦場に赴けば先頭に立ち、数多くの武功を挙げました。
その際に、酒井忠次が使用していた甲冑(鎧兜)が「色々縅胴丸具足」(いろいろおどしどうまるぐそく)。
戦国時代の甲冑(鎧兜)は、機能性に優れた胴丸が使用される一方、色々縅胴丸具足は大袖などのパーツが多く付いているなど、機能面で劣るように見られます。しかし、小札のほとんどに革を使用していたため、軽量な甲冑(鎧兜)として、他の甲冑(鎧兜)に比べても遜色ない動きが可能でした。
本多忠勝(ほんだただかつ)
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本多忠勝
本多忠勝は、15歳で戦場に赴きました。18歳のときには騎馬50騎の軍団長に任命され、精鋭部隊として活躍。
その後、徳川家康の親衛軍団長として、城を与えられることなく徳川家康の居城である駿府に常駐しました。
本多忠勝の武器として有名なのが、天下三名槍のひとつ「蜻蛉切」(とんぼきり)。槍を立てていたところに飛んできたトンボがあたって2つに切れたことが名前の由来です。
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銘
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藤原正真作
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鑑定区分
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未鑑定
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刃長
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43.7
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所蔵・伝来
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本多忠勝 →
個人蔵
(佐野美術館へ寄託)
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銘
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学古作長谷堂住恒平彫同人
令和二年六月日
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鑑定区分
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未鑑定
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刃長
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43
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所蔵・伝来
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刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
黒糸縅胴丸具足
甲冑(鎧兜)は「牛皮小札黒糸縅之具足」(ぎゅうひこざねくろいとおどしのぐそく)を着用。牛皮の小札が多く使用された、比較的軽量で動きやすさが重視された作りになっています。
兜は、頭長が尖った「突盔形兜」(とっぱいなりかぶと)。兜に和紙を貼り合わせ、黒漆で塗り固めた鹿の大きな角が側面に挿さっていて、その様子から「鹿角脇立兜」(かづのわきだてかぶと)と呼ばれています。
榊原康政(さかきばらやすまさ)
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榊原康政は、13歳のときに三河一向一揆で初陣を果たして武功を挙げ、徳川家康から「康」の字を貰ったと言われています。その後、酒井忠次や本多忠勝らとともに、数々の戦に参加。
特に関ヶ原の戦いでは、徳川家康の嫡男「徳川秀忠」の先鋒を担ったり、徳川家康が所持していた甲冑「南蛮胴具足」を拝領したりと、徳川家康から絶対の信頼を得ていたのが分かります。
井伊直政(いいなおまさ)
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赤備具足
井伊直政は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政と違い、譜代大名ではありませんが、22歳の若さで軍団長に抜擢。
関ヶ原の戦いでは、先陣が決まっていた「福島正則」(ふくしままさのり)を横目に抜け駆けし、数々の武功を挙げました。抜け駆けは軍規違反でしたが、これまでの功績を鑑みてなのか、許されたと伝わっています。
井伊直政の甲冑「赤備具足」(あかぞなえぐそく)は、すべて朱で塗られています。これを「井伊の赤備え」と呼び、戦場のどこにいても井伊直政のことを部下が見付けられる利点がありました。
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〔 東建コーポレーション 〕