豊臣秀吉の歴史
豊臣秀吉の生涯
出自について
豊臣秀吉
「豊臣秀吉」は、尾張国愛知郡中村郷(現在の愛知県名古屋市中村区)にあたる場所で、足軽をしていた「木下弥右衛門」(きのしたやえもん)と妻「仲」(なか:のちの[大政所])の子として誕生。
生まれた年については定まっておらず、1537年(天文6年)ではないかと言われています。
豊臣秀吉は、15歳になった時に「侍になる」と言って生まれ故郷から離れると、遠江国長上郡(とおとうみのくにながかみぐん:現在の静岡県浜松市中央区)で今川氏の陪臣(ばいしん:家臣の家臣)松下氏に仕えました。
当時豊臣秀吉は「木下藤吉郎」(きのしたとうきちろう)と名乗っており、松下氏から目をかけてもらっていましたが、のちに退転します。
なお、退転した理由については諸説あり、松下氏から優遇されていた豊臣秀吉は、他の家臣から妬まれていたため、それを不憫に思った松下氏が豊臣秀吉に金を持たせて送り出したという説や、豊臣秀吉が金を盗んで出奔した説などがありますが、いずれも真偽は不明です。
織田信長の下で名を挙げる
織田信長
1554年(天文23年)、豊臣秀吉はこの頃から「織田信長」の奉公人として仕えます。
1561年(永禄4年)、足軽組頭まで上り詰めた豊臣秀吉は、足軽組頭として同じ長屋に住んでいた「杉原定利」(すぎはらさだとし)の娘「ねね」と婚姻。その後、豊臣秀吉は様々な偉業を成し遂げていきます。
1566年(永禄9年)、美濃国(現在の岐阜県)斎藤家へ侵攻する際に、敵前で一夜にして「墨俣城」を築き上げたという「墨俣一夜城」。川の上流から木材を流し、下流で築城を進めるという奇策は、豊臣秀吉の存在を織田信長に示した最初の功績と言われています。
1568年(永禄11年)の「観音寺城の戦い」では、「箕作城」(みつくりじょう)に夜襲を仕掛けて落城を果たし、織田信長の天下布武の足がかりに大いに貢献しました。
さらに、1570年(元亀元年)の越前国敦賀郡(えちぜんのくにつるがぐん:現在の福井県)で起きた「金ヶ崎の戦い」では、「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)という撤退劇を披露し、功績として黄金数十枚を賜っています。
羽柴秀吉として織田政権下で勢力を延ばしていく
1572年(元亀3年)、豊臣秀吉は「丹羽長秀」や「柴田勝家」のような人物になると誓い、2人の名前を取って「羽柴秀吉」に改名。1575年(天正3年)の「長篠の戦い」では、「霧山城」を攻め落とす活躍を見せるなど、徐々に頭角を現していきました。
しかし、その矢先の1577年(天正5年)、豊臣秀吉の進退に大きな影響を及ぼす出来事が起きます。加賀国(現在の石川県南半部)「手取川の戦い」の際、作戦に関する意見の食い違いにより柴田勝家と揉めて、豊臣秀吉は無断で兵を撤収。その結果、柴田勝家は「上杉謙信」に敗北してしまい、このことが織田信長に知られると、豊臣秀吉は激しく叱責されてしまいました。
同年、豊臣秀吉は汚名返上をかけて「信貴山城の戦い」(しぎさんじょうのたたかい)に臨みます。そして、織田信長を2度も裏切った「松永久秀」の討伐に従軍したことで、再び信頼を回復。豊臣秀吉は褒美を授かり、これまで以上に織田信長から厚く信頼されるようになったのです。
播磨と但馬を攻略し、兵糧攻め戦法で中国地方を制圧
姫路城
松永久秀を討った同年、豊臣秀吉は織田信長から中国地方攻略の命を受けることになりました。手始めに播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県西部)の攻略を開始します。
在地勢力を人質に取り、以前播磨守護だった赤松氏配下「赤松則房」(あかまつのりふさ)、「別所長治」(べっしょながはる)などを従軍させると、交流があった「黒田官兵衛」から姫路城を譲り受けて拠点に据えました。
豊臣秀吉は、人を従わせる才能を活かして次々に諸大名を仲間に引き入れていきます。しかし、摂津国「荒木村重」が突然謀反を起こしました。これにより中国平定は一時的に中断。さらに立て続けに裏切りが起きますが、豊臣秀吉は決して屈しませんでした。確実に相手を疲弊させて討伐させることに定評がある豊臣秀吉は、ここでも得意の「兵糧攻め」や「水攻め」などを駆使して、問題をひとつずつ解消していったのです。
本能寺の変、そして明智光秀討伐へ
明智光秀
豊臣秀吉に任じられた中国平定は順調に進んでいましたが、その矢先に思いがけない出来事が起きます。
1582年(天正10年)、明智光秀の謀反によって引き起こされた「本能寺の変」です。明智光秀に奇襲をかけられた織田信長が、火の手のあがる御殿で命尽きたと聞かされた豊臣秀吉は、織田信長の死を隠して「毛利輝元」と講和し、京都へと引き返しました。
そして豊臣秀吉は、織田信長の弔い合戦「山崎の戦い」を開始。移動途中で諸大名を味方に付けた豊臣秀吉軍の兵力は40,000、対する明智光秀軍は20,000弱と兵力差は歴然でした。
本能寺の変
清州会議を経て柴田勝家との対立が深まる
柴田勝家
1582年(天正10年)6月27日、清洲城で織田信長の後継者決めと遺領の分配を目的にした「清洲会議」が行なわれました。明智光秀討伐の功績がある豊臣秀吉は、織田信長の甥「三法師」(さんぼうし:のちの織田秀信)を推薦し、柴田勝家らの反対意見を跳ね除けて後継者に選出。
また、遺領分割では計28万石が与えられることになり、豊臣秀吉は勢力を一気に拡大することに成功したのです。しかし、その一方で豊臣秀吉は柴田勝家との間に大きな溝を作っていました。
柴田勝家は、織田信長の後継者決めの際に織田信長の3男「織田信孝」を推薦しており、清須会議では豊臣秀吉と大いに揉めていたのです。また、その後に執り行なわれた織田信長の葬儀の場には柴田勝家の姿はなく、この問題がのちに争乱を引き起こすことになります。
同年、豊臣秀吉が私的に織田家諸大名と懇意にしていたことを柴田勝家に見咎められて、より一層2人の対立が激化。そして、事態は悪い方向へと転がっていきます。
清洲会議のあと、織田信長の後継者に決まった三法師は、織田信孝によって岐阜城に留め置かれていました。豊臣秀吉は、これを織田信孝の謀反と決め付けて、柴田勝家の養子「柴田勝豊」(しばたかつとよ)が拠点にしている長浜城を包囲し、獲得に成功。豊臣秀吉は勢いづいて美濃国へ進攻すると、岐阜城にいた織田信孝を降伏させて三法師を奪還しました。
翌年の1583年(天正11年)、豊臣秀吉は近江国賤ヶ岳(おうみのくにしずがたけ:現在の滋賀県長浜市)で、柴田勝家率いる30,000の軍勢と衝突します。「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれるこの合戦は「賤ヶ岳の七本槍」と謳われる勇将が多く活躍し、豊臣秀吉が天下人となるための足がかりとなった戦いです。
戦いは始め互角でしたが、柴田勝家側にいた「前田利家」が突然戦線離脱をしたことで、柴田勝家軍全体の士気が低下。敗戦を悟った柴田勝家軍の諸将が立て続けに退却していき、豊臣秀吉軍は手薄となった柴田勝家軍本隊へと殺到します。
耐え切れなくなった柴田勝家は、越前国「北ノ庄城」へと撤退しますが、前田利家が先鋒を務める豊臣秀吉軍に包囲されて、妻「お市の方」と共に自害。数日後には、織田信孝も切腹を命じられて自害し、織田家の実力者を討ち取った豊臣秀吉は、本拠地として「大坂本願寺」の跡地に「大坂城」を築城します。
小牧・長久手の戦い
賤ヶ岳の戦いのあと、豊臣秀吉は三法師の後見として「安土城」に入城した織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)に対して退去するように命じました。
なぜ退去するように命じたのか理由は定かになっていませんが、このあとに豊臣秀吉は織田信雄に対して「年賀の礼に来るように」と命じており、この一連の出来事がきっかけとなって、織田信雄は豊臣秀吉に対して反発の意思を見せるようになります。
織田信雄は、豊臣秀吉を討つ目的で「徳川家康」と同盟関係を結び、豊臣秀吉に懐柔された重臣「津川義冬」(つがわよしふゆ)、「岡田重孝」(おかだしげたか)、「浅井長時」(あざいながとき)を処刑。事実上の宣戦布告に対して豊臣秀吉は憤怒し、織田信雄を討つ決意を固めます。
これに対して豊臣秀吉は、美濃や伊勢の諸大名「池田恒興」(いけだつねおき)や「森長可」(もりながよし)などの有力武将を味方に付けました。一方で織田信雄は、同盟を結んだ徳川家康の呼びかけにより、土佐国(現在の高知県)の武将「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)、紀伊国(現在の和歌山県と三重県南部)の「雑賀衆」(さいかしゅう:鉄砲を主に武器とした傭兵集団)を味方に引きいれ、両軍は尾張国・長久手及び小牧城周辺で激突します。
「小牧・長久手の戦い」と呼ばれるこの戦いは、尾張周辺や美濃・伊勢だけに留まらず、北陸・四国・関東にも戦禍が及ぶ大規模な合戦となり、長久手で開戦してから各所での戦いが終わるまで、実に8ヵ月も続きました。このとき、豊臣秀吉軍の兵力はおよそ120,000。対して織田信雄・徳川家康連合軍の兵力は約40,000で、兵力差だけを見れば豊臣秀吉軍が圧倒的に有利でした。
しかし、徳川家康軍の奮戦により池田恒興、森長可が相次いで討ち死に。戦局は次第に豊臣秀吉軍が不利になっていきます。徳川家康が最も得意とする情報戦により、豊臣秀吉軍の奇襲がことごとく失敗したことが原因でした。兵力では豊臣秀吉軍が有利であったものの、徳川家康の戦術に苦戦を強いられた豊臣秀吉は、自ら織田信雄の本領である美濃や北伊勢の諸城を攻略。そして、織田信雄に対して単独講和を持ちかけると、織田信雄は徳川家康に断りもなく講和を結び、戦いは終結を迎えたのです。
関白に就任し、天下統一
豊臣秀吉は、いよいよ全国統一のために動き出します。1585年(天正13年)に紀伊を攻略したあと、「毛利輝元」や「小早川隆景」などの有力武将を組み込んだ10万の大軍を四国へと進攻させました。
その頃、朝廷では関白の座を巡り、二条昭実(にじょうあきざね)と近衛信輔(このえのぶすけ)が争っていました。
先に関白に就任していた二条昭実に対し、近衛信輔が関白の座を譲るように要求したのです。
関白は、成人した天皇を助ける形で政治を行なう役職で、公家の頂点「五摂家」(ごせっけ)と呼ばれていた一条家・二条家・九条家・近衛家・鷹司家(たかつかさけ)のみが就くことができます。
豊臣秀吉は、この関白の座を巡る争いに仲介役として介入。なんと近衛家の養子になり、自分が関白に就任したのです。
その後、豊臣秀吉は四国を統一していた長宗我部元親を降伏させると四国平定を完了させ、さらに小牧・長久手の戦いの最中に織田信雄側へ寝返った越中国(現在の富山県)「佐々成政」(さっさなりまさ)へと進軍。
織田信雄の仲介の末に佐々成政を降伏させることに成功し、豊臣秀吉は紀伊・四国・越中を平定させました。
正親町天皇
1586年(天正14年)、豊臣秀吉は「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)から「豊臣」の姓を下賜され、その後「太政大臣」に就任。これにより豊臣秀吉による政権が確立します。
翌年の1587年(天正15年)、九州平定に向けて「島津義久」と交戦。激闘の末に島津義久を降伏させ、その後も抵抗を続けていた「島津義弘」などの諸将を、島津義久が説得する形で降伏させることに成功。
およそ1年をかけて九州を平定した豊臣秀吉は同年12月、全国統一の総仕上げとして「惣無事令」(そうぶじれい)を関東・奥羽地方へ向けて発令しました。
惣無事令とは、大名間の私的な戦いを禁止する法令のことで、もし違反すれば改易や処刑などの厳しい処分が下されます。豊臣秀吉の強攻策に対して多くの大名は恭順の意思を示しましたが、この矢先に豊臣秀吉の裁定を覆す事件がおきました。
北条氏の家臣「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が独断により、「真田昌幸」の家臣「鈴木重則」が守っていた上野国(現在の群馬県)の「名胡桃城」(なぐるみじょう)を占領したのです。「名胡桃城事件」とも呼ばれるこの出来事に豊臣秀吉は、惣無事令を違反したとして挙兵。全国の諸大名が参戦し、200,000を超える大軍が北条氏の討伐へ向かいます。
1590年(天正18年)、「小田原征伐」が開戦。小田原城へ続く道中にあった伊豆国(現在の静岡県南部)、駿河国(現在の静岡県中部)、相模国(現在の神奈川県)の城を次々と攻略。北条氏側に加担していた諸大名達の中から離反をする者も現れはじめ、ついに北条氏が降伏する形で小田原城は明け渡されます。
北条氏が有していた領土はすべて徳川家康にあてがわれ、最後まで豊臣秀吉に抵抗していた「九戸政実」(くのへまさざね)も降伏。ここに豊臣秀吉の天下統一が成し遂げられたのです。
豊臣秀吉が刀狩令を布告
天下統一を成し遂げる数年前に、豊臣秀吉は「刀狩令」を布告しています。
農民や商人などが刀剣や槍を持つことを禁止し没収したのです。全国的に行なわれた刀狩で集まった刀剣や槍の数は一万本以上とも言われています。
豊臣秀吉はなぜ刀狩を行なったのでしょうか。
刀狩令を布告する1年ほど前に、豊臣秀吉は日本各地で起こっている村同士の紛争を解決しようと「喧嘩停止令」を布告しています。
その頃の日本では多くの農民や商人が刀剣や槍などを所持していたため、争いごとが絶えませんでした。
そこで「喧嘩停止令」と「刀狩令」を布告することで、各地の紛争をなくそうとしたのです。
刀剣の没収は知的な方法で計画的に行なわれました。まず、全国の村に刀匠を派遣し「名刀を買いたい」と宣伝したのです。刀匠が刀剣の鑑定をしてくれることを知った村人達は、自慢の刀剣の価値を知ろうと集まってきます。その村人達の名前を刀匠が記録し、後日その記録をもとに刀剣を没収したのです。
これにより刀剣は、武士だけが所持するようになり、その価値を高めていくのでした。
天下人・豊臣秀吉の最期
1593年(文禄2年)、豊臣秀吉と側室「淀殿」の間に待望の男児「豊臣秀頼」が生まれました。この予期しない男児の誕生に焦ったのは「豊臣秀次」です。豊臣秀次は、豊臣秀頼が生まれる2年前の1591年(天正19年)に2代目関白に就任したばかりでした。
そして豊臣秀吉は、豊臣秀次を疎ましく感じたことで豊臣秀次に謀反の疑いをかけます。
豊臣秀次のみならず家臣や係累のすべてを含めて切腹を命じたのち、豊臣秀次が存在した痕跡を消すために、豊臣秀次が邸宅としていた「聚楽第」(じゅらくてい/じゅらくだい)や、居城していた近江国「八幡山城」を破壊。
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉は京都「醍醐寺」で「醍醐の花見」と呼ばれる盛大な花見を開催。これが豊臣秀吉にとっての最後の花見となりました。同年7月、豊臣秀吉は死期が近いことを悟ると伏見城に徳川家康など諸大名を呼び寄せて、自分の死後は豊臣秀頼に忠義を誓い仕えるようにと遺言を言い渡します。
1598年(慶長3年)8月18日、豊臣秀吉はこの世を去りました。享年62歳。死因については諸説ありますが、病気が原因と言われています。
織田信長、徳川家康と並び「戦国三英傑」にも数えられている豊臣秀吉は、「人たらし」と言われるほど人の心を掴むことが上手く、低い身分から天下人にまで上り詰めました。現在も全国にある「豊国神社」では、出世の神様として多くの人々から信奉されています。
武断派と文治派
「武断派」(ぶだんは)、「文治派」(ぶんちは)とは、豊臣秀吉の政権下にて、内部に存在した2大派閥のことです。武断派のリーダーは「加藤清正」。文治派のリーダーは「石田三成」で、まず武断派と文治派が対立したのは、「朝鮮出兵」(文禄の役、慶長の役)のときと言われています。
天下統一を果たした豊臣秀吉が、次に目を向けたのは、海外でした。豊臣秀吉は、南蛮貿易を推奨し、ポルトガル、スペイン、台湾などから、来貢を要求。しかし、1587年(天正15年)の九州平定の際、ポルトガル人が日本人を奴隷として輸出していることや、キリシタン大名が所領を教会に寄付していることを知ったのです。
これにより、豊臣秀吉は大名がキリスト教へ信仰することをすぐに禁止し、「バテレン追放令」を発布。宣教師達を国外へと追放し、布教を禁止しました。
さらに豊臣秀吉は、明(みん:現在の中国)の征服を計画。このため、朝鮮に対して、明への先導と服従を要求したところ、朝鮮側が拒否。これにより豊臣秀吉は、まず朝鮮に対して、1592年(文禄元年)文禄の役を起こしたのです。豊臣秀吉は、加藤清正をはじめとする兵160,000軍を釜山に出兵。日本軍は釜山城、漢城を落とし、豆満江まで進出しました。
しかし、朝鮮側も朝鮮水軍や朝鮮義勇軍が活躍し抵抗。さらに朝鮮軍には明軍が来援し、日本軍はピンチに。これにより、豊臣秀吉は明との講和を図りましたが、交渉は決裂。そこで再び、豊臣秀吉は朝鮮に対して1597年(慶長2年)慶長の役を起こしたのです。今度は140,000の兵を送りましたが、日本は苦戦を強いられ、翌年の1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が病死したため、全軍撤廃となりました。
武断派とは
武断派とは、武断(武力をもって世を治めること)に徹した派閥のことです。実際には、朝鮮出兵において、朝鮮に赴任して戦った者達のこと。主なメンバーは、加藤清正、福島正則、池田輝政、加藤嘉明、黒田長政などです。
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加藤清正(かとうきよまさ)
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加藤清正
1562年(永禄5年)生まれ。豊臣秀吉の小姓で、1583年(天正11年)「賤ヶ岳の戦い」では「七本槍」のひとりとして活躍。
1588年(天正16年)肥後国(現在の熊本県)熊本城の城主となり25万石を領有しました。
朝鮮出兵では、「鬼将軍」、「鬼上官」と呼ばれて大活躍しましたが、朝鮮との講和交渉の際、石田三成、小西行長と意見が合わず孤立。日本に戻されて、伏見で蟄居させられる羽目に遭わされています。
福島正則(ふくしままさのり)
- 黒田長政(くろだながまさ)
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黒田長政
1568年(永禄11年)生まれ。父は「黒田官兵衛」(別名:黒田如水・黒田孝高)です。父が織田信長に属することになり、織田信長の人質として、豊臣秀吉に育てられました。
賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、九州平定などで活躍。朝鮮出兵においても、「碧蹄館の戦い」(へきていかんのたたかい)や「蔚山城の戦い」(うるさんじょうのたたかい)で戦功を挙げましたが、石田三成の報告の仕方が悪く、豊臣秀吉から叱責。石田三成に対して、不信感を抱くようになったのです。
文治派とは
文治派とは、文治(武力ではなく、政務、吏務を担うこと)に徹した派閥です。朝鮮出兵においては、名護屋本営(現在の佐賀県)の設営、兵站(へいたん:人員・兵器・食糧などの前送・補給)、交通路の確保・整備、軍需品輸送、和平交渉などを行いました。主なメンバーは、石田三成、小西行長、大谷吉継などです。
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石田三成(いしだみつなり)
- 大谷吉継(おおたによしつぐ)
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大谷吉継
1559年(永禄2年)生まれ。豊臣秀吉の小姓で、大谷盛治(大友宗麟の家臣)の子。
武力も優れていましたが、吏僚派(りりょうは)として、賤ヶ岳の戦いでは調略、九州平定では兵站を任され、石田三成との友情も厚い人物です。
1589年(天正17年)越前国(現在の福井県)5万石の敦賀城の城主に。朝鮮出兵では、石田三成らと船奉行、督戦奉行を務め、現地報告の取りまとめ、明との講和交渉にもあたりました。
小西行長(こにしゆきなが)
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小西行長
小西行長は生年不詳。1580年(天正8年)頃から豊臣秀吉に才智を気に入られ、重用。キリシタン大名として有名な人物です。
1585年(天正13年)の「紀州征伐」では、水軍の長として活躍し、九州平定でも武功を挙げ、肥後国(現在の熊本県)南半国20万石を領有。
朝鮮出兵でも武功を挙げましたが、講和交渉に失敗し、豊臣秀吉から死の宣告を受けますが、前田利家のとりなしで許されています。石田三成を支持していたというよりも、加藤清正を嫌っていました。
豊臣秀吉の死後
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権は、後継者を豊臣秀吉の嫡男「豊臣秀頼」(当時5歳)に決定。五大老、五奉行で支えていく体制へと移行し、武断派と文治派の対立は、徐々に激しくなりました。
戦を勝ち抜いて結果を出してきた武断派に対して、これから戦がない平和な世になれば武断派は必要ないと考える文治派との間には、大きな溝ができていたのです。武断派と文治派の間を調整していたのが、五大老前田利家。
しかし、1599年(慶長4年)に病死してしまいます。これにより、起こったのが「石田三成襲撃事件」です。これは、加藤清正、福島正則、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政という7名の武断派が、文治派トップで五奉行の石田三成を襲撃した事件。
石田三成は佐竹義宣・宇喜多秀家の助けにより、何とか逃げのびましたが、五大老徳川家康の仲裁で、五奉行の肩書を剥奪され、隠居の身となったのです。なお、石田三成襲撃事件の黒幕は、徳川家康だったという説もあります。このあと、武断派は東軍、文治派は西軍となり、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」へと発展するのです。
豊臣秀吉の家系図
天下統一を成し遂げた「豊臣秀吉」の家系図を紐解くと、「織田信長」、「徳川家康」との繋がりを見ることができます。豊臣秀吉は織田信長の妹、「お市の方」の長女である「淀殿(茶々)」を側室に持ち、豊臣秀吉の息子「豊臣秀頼」の正室には徳川家康の孫「千姫」がいます。
豊臣秀吉の家系図から戦国三英傑の繋がりを辿ってみましょう。
豊臣秀吉の家系図
豊臣秀吉の人物相関図
豊臣秀吉の生涯にかかわった人物は数多くいますが、ここでは特に重要な人物を「人物相関図」で分かりやすくご紹介します。
豊臣秀吉の人物相関図
豊臣秀吉の家紋
沢瀉紋
沢瀉紋
「沢瀉紋」(おもだかもん)は、豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃に使用していたと言われる家紋で、日本の十大家紋(じゅうだいかもん:日本で広く使用される代表的な10の家紋)のひとつです。
「沢瀉」(おもだか)とは、池などの水辺に自生する水草の一種で、葉の形状が矢の先端に付ける、突き刺さる部分の「鏃」(やじり)に似ていることから「勝戦草」(かちいくさぐさ)とも呼ばれています。
太閤桐
太閤桐
「太閤桐」(たいこうぎり)は、「桐紋」の一種。桐紋は、もともと天皇家が使用していた家紋です。「桐」は樹木の桐のことで、鳳凰が留まる神聖な樹木と考えられていました。もともとは古代中国が発祥で、それを日本に取り入れたと言われています。
天皇が武家に桐紋を下賜する風習があったため、織田信長が上洛を果たしたときにも桐紋が下賜されました。
そして、織田信長から豊臣秀吉へ桐紋が下賜されたことで、豊臣秀吉も使い始めたと言われています。なお、太閤桐には決まった形がありません。太閤桐は、通常の桐紋を大きく変形させた紋の総称であり、紋によって上部の花の枚数が異なるなど、その特徴も様々あります。
豊臣秀吉の名言
人はただ さし出づるこそ よかりけれ 軍(いくさ)のときも 先駆けをして
「人は普段からしゃしゃり出るのが良い。もちろん合戦のときもだ」という意味の言葉です。
豊臣秀吉は、まだ刀剣も持たせてもらえなかった小者(雑用係)だった頃から、誰よりも積極的に物事に取り組んでいました。たった数日で城を築き上げた墨俣一夜城の逸話を筆頭に、織田信長家臣団の中でも様々な功績を挙げて一世一代の大出世を果たします。そんな折に、豊臣秀吉の活躍を妬んだ同輩からこんな歌を詠まれました。
「人は皆 さし出でぬこそ よかりけれ 軍(いくさ)のときは 先駆けをして」
「人は合戦のときを除いて、しゃしゃり出ないほうが良い。謙虚こそ美徳である」という、豊臣秀吉に対する皮肉の歌です。
しかし、普段から遠慮している人が合戦のときに活躍できる訳がありません。豊臣秀吉は前出の歌の通り、普段から何事にも積極的に、誰よりも活躍したからこそ天下人にまで上り詰めました。意欲的でなければ出世などできない、という現代にも通じる名言です。
夢は大きいほど良いと言うが、わしはすぐ手の届くことを言っている
豊臣秀吉がまだ足軽身分だった頃、他の足軽達と夢について語り合っていました。ある者は「一国の主になりたい」と言い、またある者は「天下を取りたい」と言い、各々が大きな夢を語る中で豊臣秀吉だけがこのように言ったといいます。
「わしは散々苦労をして100石の身分となった。だから、今度は倍の200石取りになりたい」
豊臣秀吉の謙虚すぎる言い分に、他の足軽達が嘲笑をしますが、続けて豊臣秀吉はこう言いました。
「お主達は、叶わない夢を語っているに過ぎない。わしは叶えられることを語ったのだ。200石であれば努力次第ですぐに叶えられるゆえ、ご奉公にも身が入るというもの。つまりは自然と達成できることだ」
実際豊臣秀吉は、その後数々の戦で功績を挙げていきました。豊臣秀吉が没した1598年(慶長3年)時点で、豊臣秀吉の直轄領の石高は222万石。
小さなことからこつこつと、着実に成果を出していった豊臣秀吉の生き様とも言うべきこの言葉は、今なお多くの人の心に響く名言です。
豊臣秀吉と明智光秀
明智光秀
豊臣秀吉と明智光秀は、同時代に織田信長の家臣だったと知られています。
当時の戦いで有名なのが、「金ヶ崎の退き口」です。この戦いで2人は殿(しんがり)を務め、浅井・朝倉軍から無事に織田信長を逃すことができました。
また、この事件の前には、豊臣秀吉と明智光秀など4人が、京都周辺の政務を織田信長に任命されています。
この他、松永久秀を討った信貴山城の戦いに両人とも参加するなど、豊臣秀吉・明智光秀の2人は、織田信長のもとで同じ任務に就いて活躍していました。
しかし、1582年(天正10年)6月2日、「本能寺の変」が起こります。
この頃、豊臣秀吉は織田信長の命によって中国地方を攻めていました。そして中国地方の毛利家と対峙し、織田信長に援軍を要請します。このとき援軍に行くよう命じられたのが明智光秀です。しかし明智光秀は、豊臣秀吉のもとに行くことなく本能寺へ向かい、主君・織田信長を自害へと追い込みました。なぜ援軍に向かわずに謀反を働いたのか、真相は謎に包まれたままです。明智光秀はこのあと、朝廷に金銭を献上するなどして、地固めを行なっています。
一方、豊臣秀吉はこのとき、備中高松城を水攻めにしていました。しかし「本能寺の変」の知らせを聞くと、すぐさま上洛。6月11日には尼崎に到着します。1週間足らずで約200㎞も移動した、世に言う「中国大返し」です。
かくして同年6月13日、明智光秀討伐を目的とした、織田信長の弔い合戦「山崎の戦い」は始まりました。明智光秀方は劣勢になり、敗走。明智光秀の行方は分かっておらず、農民によって殺害されたとも、自刃したとも、逃げ延びたとも言われています。
このあと、豊臣秀吉は「清須会議」にて、明智光秀の領土であった丹波などを獲得しました。
このように、同じ主君のもとで、同じ戦いに参加していた豊臣秀吉と明智光秀は敵対することとなり、豊臣秀吉の勝利という形で終わったのです。
太刀 額銘 吉光(名物 一期一振藤四郎)
「一期一振藤四郎」(いちごひとふりとうしろう)は、無類の名刀収集家で知られる豊臣秀吉が所有した愛刀の1振。
本刀は、刀匠「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)が作刀。豊臣秀吉が名刀中の名刀しか入れないという「一之箱」(いちのはこ)に納めるほど、特に大事にした太刀でした。
名称の「一期一振」は、「生涯で一度きりの太刀(傑作の出来)」という意味です。粟田口吉光は本来、短刀を中心に刀剣の作刀をしており、粟田口吉光が生涯で作刀した太刀は、名称の通り本刀1振だけでした。
なお、本刀は「大坂夏の陣」で大坂城と共に焼かれて焼身(やけみ:刀身が炎に焼かれること)になっています。その後、徳川家に渡ると江戸幕府お抱えの刀工「越前康継」(えちぜんやすつぐ)により再刃(さいば/さいは:刀身を焼き直すこと)され、歴代将軍に受け継がれました。
徳川家から天皇家に献上されたあとは、現代まで御物(ぎょぶつ:皇室の私有品)として大切に管理されています。

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銘
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吉光
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鑑定区分
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御物
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刃長
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68.8
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所蔵・伝来
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毛利輝元 →
豊臣秀吉