日本各地の忍者
傭兵を生業とする忍者集団・雑賀衆
孫市まつり
「雑賀衆」(さいかしゅう)は、戦国時代に紀伊国(きいのくに:現在の和歌山県・三重県南部)を中心として活動した傭兵を生業とする忍者集団です。紀伊国は海に面していたため海運・貿易が盛んで、伝来したばかりの鉄砲を多数調達することができました。
さらにその鉄砲を運用するための火薬の製造・使用に関する知識「火術」にも長けた忍者集団で、当時最先端の軍事力を有していました。
雑賀衆には、「雑賀孫一」(さいかまごいち)としても知られる「鈴木孫一」(すずきまごいち)の名を代々継承した忍者の頭領が存在しましたが、5つの地域に分かれていた雑賀衆は地域ごとに独自に雇用先を選択していました。
そのため織田信長が石山本願寺を攻めた「石山合戦」では、織田信長に味方する地域と石山本願寺側に味方する地域で分かれて戦場で激突。雑賀衆同士が戦うこともたびたびあったと言われています。
しかし1585年(天正13年)になると、豊臣秀吉が天下統一に向け紀州征伐を開始。雑賀衆は鉄砲隊で応戦するものの、大軍を率いて損害を恐れず進軍する豊臣秀吉軍になすすべなく敗北。雑賀衆は滅ぼされ、残った忍者達は全国に散り散りとなりました。
また同時期に、近隣の根来寺(ねごろじ:和歌山県岩出市根来)を本拠地として、雑賀衆と同じく鉄砲で武装した忍者として活躍していた「根来衆」も、雑賀衆とともに豊臣秀吉の紀州征伐によって壊滅することとなりました。
現在も本願寺鷺森別院(ほんがんじさぎのもりべついん:和歌山県和歌山市)では、孫市と雑賀衆の活躍を今に伝える孫市まつりが毎年開催されています。
毛利元就の忍者集団・座頭衆 世鬼一族
安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)の一勢力だった毛利元就」(もうりもとなり)の手によって一代で中国地方の覇者へと駆け上がった裏にも、「座頭衆」(ざとうしゅう)や「世鬼一族」(せきいちぞく)という複数の忍者集団の活躍がありました。
琵琶法師
座頭衆の「座頭」とは、琵琶を弾く盲目の僧「琵琶法師」(びわほうし)のなかで最も低い位の僧のこと。毛利元就は、全国をめぐりどこにいても怪しまれない座頭を各地の諜報要員として全国へ派遣していました。
さらに毛利元就は「角都」(かくづ)と呼ばれる1人の座頭を放ち、毛利元就と敵対していた出雲国(いずものくに:現在の島根県東部)の戦国大名「尼子晴久」(あまごはるひさ)の家臣となるべく侵入させます。
家臣となった角都は、尼子晴久に酒や遊興といった遊びを教えて取り入り、尼子晴久との距離を縮め信頼を得るようになります。
尼子晴久の信頼を得た角都は、尼子家の主力・軍事集団「新宮党」(しんぐうとう)が尼子晴久を裏切ると偽りの情報を尼子晴久に伝え、それを真に受けた尼子晴久は新宮党を粛清。結果、毛利家のライバルだった尼子家の勢力を削ることに成功しました。
世鬼一族は、今川家の末裔とも言われている忍者集団で、25人ほどの忍者を抱えていました。頭領の「世鬼政時」(せきまさとき)を中心に、多くの戦で敵陣に紛れ込み、情報収集や敵内部への偽情報の流布を行なっていたとされます。
1554年(天文23年)には、大内家の重臣「江良房栄」(えらふさひで)の才覚を危険視した毛利元就が世鬼一族を使い、「江良房栄は毛利家に寝返る」と大内家に偽情報を流し江良房栄を処刑させることに成功。
翌年、毛利元就は重臣を欠く大内家を相手に、のちに、河越城の戦い・桶狭間の戦いと並び「日本三大奇襲」とも呼ばれる厳島の戦い(いつくしまのたたかい)で大勝。隣国の大名・大内家を滅亡へと追い込み、毛利家がさらに勢力を拡大させるきっかけとなりました。
上杉謙信の忍者集団・軒猿
上杉謙信
「軒猿」(のきざる)は、越後国(えちごのくに:現在の新潟県本州部分)の戦国大名・上杉謙信に仕えていたという忍者集団。江戸時代に書かれた忍術の秘伝書「萬川集海」(まんせんしゅうかい)にも、その名前が載っています。
上杉謙信の時代には主に「夜盗組」(やとうぐみ)、「伏齅」(ふせかぎ)、「聞者役」(ききものやく)と呼ばれていたとされます。
1561年(永禄4年)に起こった第4次川中島の戦いにおいて、上杉謙信は軒猿がもたらした情報によって武田軍の奇襲を回避しています。
妻女山(さいじょさん:長野県長野市)に陣取っていた上杉謙信に対して、武田信玄の軍師「山本勘助」(やまもとかんすけ)が奇襲を献策(計略を主君に提案すること)。
軍を2つに分け、夜明けとともに分隊が妻女山の上杉軍に奇襲をかけて、平地に逃げてきた上杉軍を武田軍本隊が挟撃する「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)が実行されます。
しかし軒猿がその情報を事前に察知すると、上杉謙信は奇襲を逆手に取り夜のうちに下山して平地で待つ武田軍本隊の前に布陣。
そして、夜明けを待って武田軍本隊に総攻撃をかけました。この奇襲返しによって、啄木鳥戦法を発案した山本勘助や武田信玄の弟「武田信繁」(たけだのぶしげ)が討死にするなど、武田軍に大打撃を与えました。
徳川幕府に仕えた忍者集団・御庭番
「御庭番」(おにわばん)とは、江戸時代に徳川幕府に仕えた忍者集団です。8代将軍・徳川吉宗が創設し、幕府に仕える公式の役職としてその活動についての正式な文書が残っている特殊な集団でもあります。
御庭番の前身は、徳川吉宗が将軍となる前に藩主を務めていた紀州藩(現在の和歌山県と三重県南部)で「薬込役」(くすりごめやく)と呼ばれる警備・諜報を職務としていた役人達でした。御庭番が生まれた背景には、大きく2つの理由があるとされています。
ひとつめは、徳川吉宗が徳川将軍家の直系でなく傍系の紀州藩出身であったこと。7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)が7歳で死去したことで跡継ぎがいなくなり、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)から続く徳川将軍家の直系血筋が途絶えてしまいました。
そこで協議の結果、徳川家康からの世代の近さを考慮し、曾孫にあたる紀州藩主の徳川吉宗を将軍として迎えたのです。
特例で将軍となった徳川吉宗は、自身の将軍就任を快く思わない勢力に対抗すべく自らの周囲に信頼できる護衛役を置いて身を守りました。
ふたつめの理由は、幕府に仕えていた伊賀忍者や甲賀忍者の諜報技術が著しく低下していたこと。徳川吉宗が将軍となった1716年(享保元年)には、長年の太平の世で徳川家康の時代から警備の任にあたっていた伊賀・甲賀の忍者も実戦から遠ざかっており、忍者としての技術が低下。忍者として諜報任務に従事させるのは難しかったとされています。そのため前身の薬込役として紀州藩でも諜報に従事していた御庭番がその任務を引き継いだとされています。
御庭番の普段の業務は、その名の通り江戸城本丸にある庭の警備や修繕。しかし、本丸の庭という将軍に近い場所で働いていたことから、将軍から直接命令を受けて全国各地へ赴き情報収集を行なっていました。地方に調査へ向かう際は「遠国御用」(おんごくごよう)と呼ばれ、公式には「病欠」と記録されて向かったと言われています。
佐賀藩で活動の忍者集団・嬉野忍者
嬉野忍者(うれしのにんじゃ)は江戸時代に佐賀藩(現在の佐賀県・長崎県の一部)で活動したとされる忍者達です。
2018年(平成30年)には三重大学の山田雄司教授ら専門家の研究によって、「弁慶夢想」(べんけいむそう)、「田原安右衛門良重」(たばるあんうえもんよししげ)、「古賀源太夫」(こがげんだゆう)の3人が忍者であったと認定され話題となりました。3人はそれぞれ違う時代に活躍しましたが、個々の活動が記録に残っており忍者として認定されています。
弁慶夢想は、1651年(慶安4年)に「タイ捨流」(たいしゃりゅう)剣術を嬉野に伝えた山伏です。タイ捨流とは兵法のひとつで、人吉藩(ひとよしはん:現在の熊本県人吉地方)に伝わる流派が現存しています。
「タイ」には「大・体・待・対・太」など複数の文字があてはまり、「待つを捨てる」、「対峙を捨てる」といった意味を持つことに。この兵法の内容が忍法だと判明し、弁慶夢想が忍者だと認定されました。
田原安右衛門良重は、佐賀藩の支藩(藩主の一族で家督相続の権利のない者に分与される領地)・蓮池藩(はすのいけはん:現在の佐賀県・長崎県の一部地域)に仕えていた忍者です。田原安右衛門良重は当時「細作」(さいさく)と呼ばれ、忍者の働きをしていたことが判明しています。
1667年(寛文7年)には、藩主「高力隆長」(こうりきたかなが)が改易(大名の領地を没収し身分を奪う刑罰)された島原藩(現在の長崎県島原地方)に赴き、改易騒動の動静を探っていたことが記録に残っています。
古賀源太夫は、幕末に蓮池藩で活躍したとされる忍者です。イギリスやフランスの船が相次いで長崎港に現れていた幕末、それらの船を調査する命を受けて蓮池藩から派遣されたことが文書に記されています。
また、古賀源太夫は「火術方」(かじゅつかた:火器の開発研究・製造にかかわる役職)や「御作事方」(おさくじかた:建築や修理など工事を受け持つ役職)などの役職を歴任。
火術方が担当する大砲などの火器は、当時の軍事技術の重要部分であり、それを任されていた古賀源太夫は藩内で一定以上の信頼を得ていた存在であったことが分かります。
現代でも忍術が伝わっている理由
有力な忍者集団以外に目を向けても、やはり忍者は情報収集に特化した集団と言えるでしょう。戦乱の世から太平の世に移るにつれて、集団の武力的な色は薄れ、より水面下での活動がメインになっていきました。
その結果、格闘術や城への潜入術などを活かす場面が格段に減少。それまで外部に秘伝の技を漏らさぬよう口頭で継承されていた忍術でしたが、それらの価値・実用性の薄れた技術が継承されず途絶えてしまう危機に陥り、後世に残すため江戸時代に「万川集海」(ばんせんしゅうかい)や「正忍記」(しょうにんき)といった忍術書が編纂されることとなりました。
この時代の変化があったからこそ、現代でも忍術が伝わってきているのです。