打刀とは
打刀とは
打刀の特徴
打刀が登場した時期
大小2本差
南北朝時代までは、騎馬による合戦が主流だったため、騎乗した状態で扱うことを前提にした太刀が用いられていました。
室町時代になると、室内使用に向いた小型の刀剣「脇差」が制作されるようになり、「大小2本差」と呼ばれる、長い刀剣と短い刀剣の2振を同時に携帯する様式が生まれます。
それまで用いられていた太刀は、使われなくなった訳ではなく、茎(なかご:柄[つか]に収める部分)を短く切り詰める「磨上げ」と呼ばれる改造を施して、打刀として使用しました。
なお、太刀を磨上げると銘(茎に切られる作刀者名や作刀年代)が失われてしまいますが、刀剣の刃文や地鉄(じがね)などの特徴によって、作刀者や作刀年代を推測することができます。
打刀が武器として最も活躍したのは幕末時代
日本刀は、漫画やゲームでは主要武器として描かれることが多いですが、実際には弓矢が尽きたり、槍が折れたりした場合の補助武器として使われました。
打刀が戦いの場で最も活躍したのは幕末時代。合戦のように大人数ではなく、数人を相手とする場合に使用されたのです。
著名な刀工
村正
「村正」(むらまさ)は、室町時代から江戸時代初期にかけて伊勢国桑名郡(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工。徳川将軍家に災いをもたらしたという「妖刀村正」の作刀者として有名ですが、これは後世になってから創作された伝説です。
村正が作刀した打刀は、「古今無双」と称されるほどに実戦向きで、武士であれば1度は斬ってみたいという衝動に駆られるほどの切れ味を誇りました。
また、一般に実用性を重視して作られた刀剣は、美術的価値が低いと言われていますが、村正の作は刀剣鑑定家や評論家からも高い評価を得ています。

-
銘
-
村正
-
鑑定区分
-
特別保存刀剣
-
刃長
-
64.8
-
所蔵・伝来
-
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
長曾祢虎徹
「長曾祢虎徹」(ながそねこてつ)は、「虎徹」の通称で知られる江戸時代に活躍した刀工。
もともとは甲冑を制作する甲冑師でしたが、50歳を超えてから江戸へ移り住み、刀鍛冶に転向して大成しました。虎徹の打刀の特徴は、確かな切れ味と武士好みの質実剛健な姿。
なお、知名度が上がった結果、虎徹の偽物を制作して生計を立てる刀工まで現れたため、「虎徹を見たら偽物と思え」と言われるほど贋作が非常に多く出回ったことでも有名です。

-
銘
-
長曽祢興里
入道乕徹
-
鑑定区分
-
重要刀剣
-
刃長
-
68
-
所蔵・伝来
-
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
堀川国広
「堀川国広」(ほりかわくにひろ)は、安土桃山時代に活躍した刀工。刀工一派「堀川一門」の祖として知られており、京の一条堀川に移り住んで作刀したため堀川国広と呼ばれるようになりました。
堀川一門は彫物の名手が多く存在し、作刀の多くに不動明王像や梵字などが掘られているのが特徴。
堀川国広の現存在銘作は、12振が重要文化財に指定されており、そのうち7振が打刀です。

-
銘
-
洛陽一条堀川住
藤原国広
慶長辛亥八月日
-
鑑定区分
-
特別重要刀剣
-
刃長
-
68.1
-
所蔵・伝来
-
伊木長門守忠澄 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
太刀から打刀へ姿を変えた名刀
刀 無銘 景光 織田弾正忠信秀摺上之
「刀 無銘 景光 織田弾正忠信秀摺上之」は、鎌倉時代末期に備前国(現在の岡山県東部)で活躍した刀工「長船景光」(おさふねかげみつ)が作刀した打刀。
本刀は、「織田信長」の父「織田信秀」の愛刀。のちに形見として織田信長に受け継がれたと推測されています。
作刀者である長船景光は、刀工一派「長船派」の中で最も地鉄が美しいと評される刀工です。

-
銘
-
(切付銘)
織田弾正忠
信秀摺上之
-
鑑定区分
-
特別重要刀剣
-
刃長
-
70.8
-
所蔵・伝来
-
織田家→
織田信秀→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
織田信長
刀 銘 備州長船住近景
「刀 銘 備州長船住近景」は、鎌倉時代末期から南北朝時代に備前国で活躍した刀工「長船近景」(おさふねちかかげ)が作刀した「長巻直し」(ながまきなおし)の打刀。
長巻直しとは、長巻(ながまき:太刀より長大な刀剣[大太刀]の柄部分を長くした長柄武器)の茎を磨上げて作られた打刀や脇差のこと。合戦の形式が徒歩へと移行すると、それまで使用された武器の多くが使いやすいように改造されました。当時は、多くの太刀が磨上げられて打刀の姿に変えられましたが、なかには本刀のように長巻を磨上げて打刀に変えることもあり、こうした長巻直しの打刀は数こそ少ないですが現存しています。
作刀者である長船近景は、「明智光秀」が佩用していた「明智近景」(あけちちかかげ)という号の打刀を作刀したことで知られる刀工です。現存の明智近景は、銘の大部分が削り取られてしまっていますが、当時は「明智日向守所持」(あけちひゅうがのかみしょじ)という所持銘(しょじめい:刀剣の所有者を示す銘)が切られていたと言われています。

-
銘
-
備州長船住近景
-
鑑定区分
-
重要美術品
-
刃長
-
68.2
-
所蔵・伝来
-
岩国藩藩主
吉川家伝来 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
明智光秀
刀 無銘 伝正宗
「刀 無銘 伝正宗」は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて相模国(現在の神奈川県)で活躍した正宗の通称で知られる刀工「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)が作刀した打刀。
本刀は、「明治天皇」の父「孝明天皇」の愛刀。作刀者である正宗は、五箇伝(ごかでん:名工や刀工一派を輩出した5つの生産地における伝法)のひとつ「相州伝」(そうしゅうでん)を確立した人物です。その作は、織田信長や「徳川家康」などから愛され、家臣へ下賜されたり、献上品として家臣から主君へ贈られたりすることが多かったため、全国の大名から重用されました。
なお、正宗の作はほとんどが無銘であったため、偽作が数多く出回っています。

-
銘
-
無銘
-
鑑定区分
-
特別重要刀剣
-
刃長
-
68.2
-
所蔵・伝来
-
孝明天皇→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
徳川家康
刀 無銘 貞宗
「刀 無銘 貞宗」は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて相模国で活躍した刀工「貞宗」(さだむね)が作刀した打刀。
本刀は、薩摩藩(現在の鹿児島県と宮崎県南西部)の藩主「島津家」から徳川将軍家へ渡り、その後徳川御三家のひとつ「尾張徳川家」へ伝来しました。
作刀者である貞宗は、相州伝を代表する刀工。彫物の名手としても知られており、作品の最大の特徴になっています。現存在銘作は皆無ですが、国宝や重要文化財に指定される傑作を数多く生み出しました。

-
銘
-
無銘
-
鑑定区分
-
特別重要刀剣
-
刃長
-
68.5
-
所蔵・伝来
-
尾張徳川家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
刀 銘 備前国住長船忠光
「刀 銘 備前国住長船忠光」は、室町時代中期に備前国で活躍した刀工「長船忠光」(おさふねただみつ)が作刀した打刀。
本刀は、「伊達政宗」の子「伊達秀宗」(だてひでむね)を藩祖とする「宇和島藩伊達家」に伝来しました。本刀の見所は、「備山」(びざん)の号で知られる刀剣愛好家「岡野多郎松」(おかのたろまつ)氏が「走雲」(そううん)という号を付けるほどに見事な刃文や、梵字、倶利伽羅龍(くりからりゅう:不動明王が持つ刀剣に巻き付いている龍)などの彫刻。
作刀者である長船忠光は、「末備前」(室町時代末期に作刀された備前刀)を代表する刀工です。同銘で数代続き、本刀は文明年間(1469~1487年)に活躍した7代目「彦兵衛尉忠光」(ひこべえのじょうただみつ)の作と推測されています。

-
銘
-
備前国住
長船忠光
延徳三年二月日
-
鑑定区分
-
重要美術品
-
刃長
-
62.4
-
所蔵・伝来
-
宇和島藩・伊達家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
伊達政宗