膝丸(ひざまる)
名刀・髭切とともに生まれた膝丸
膝丸が物語に登場するのは、平家物語に付属する「剣巻」(つるぎのまき)。
物語の冒頭で、天皇家の由緒ある血をひいた多田満仲(ただのみつなか)は、国の守護をするよう勅宣(ちょくせん:天皇が命じること)を受けます。
別の名を源満仲(みなもとのみつなか)と言ったその人は、それにふさわしい刀を手に入れようと刀鍛冶を集めますが、思うようにいきません。
そんなとき、筑前国(福岡県西部)の三笠郡土山に優れた刀鍛冶がいるという噂を聞き、さっそく彼を呼び寄せましたが、やはり気に入る刀剣はできませんでした。これでは名工の名が廃ると、刀鍛冶は八幡宮に参詣して、思うような刀が打てるように祈願し、手を尽くします。
すると7日目の夜、刀鍛冶は夢の中で八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ:八幡宮の祭神に対して奉られた菩薩号)からお告げを受け、お告げの通りに60日間かけて長さ2尺7寸(約80cm)、2振の太刀を鍛え上げたのです。
試し切りとして罪人の首を斬ったところ、膝のあたりまで斬り下げたので膝丸と名付けられ、もう1振の刀剣は髭まで見事に切り落としたため「髭切」と名付けられました。

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銘
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□忠
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鑑定区分
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重要文化財
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刃長
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87.6
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所蔵・伝来
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源氏→ 熊野権現→
源義経→ 箱根権現→
五郎時致(曽我兄弟)→
源頼朝→ 大友能直→
田原家→ 西園寺家→
安井門跡→ 大覚寺
源頼光を病にかけた山蜘蛛を退治
土蜘蛛退治
膝丸にまつわる逸話として、源頼光(みなもとのよりみつ)の有能な家臣である四天王のひとり、綱(つな)が鬼を退治する話がありますが、同じ年に髭切を使って怪物を退治する逸話があります。
病に悩まされていた源頼光の看病にあたっていた四天王が、源頼光の状態が落ち着いたある夜、詰所(つめしょ:一時的に宿泊や仮眠、待機をする施設)で休んでいたときのこと。
源頼光のもとに、背が7尺(2m)以上もある法師が歩み寄り、縄をかけようとしたのです。源頼光は驚いて飛び起き「何者だ!」と、枕元に置いてあった髭切で法師を切り付けました。
すると、法師の姿はたちまち消えてしまったのです。駆け付けた四天王に、源頼光はことの次第を話します。そして、ふと燭台の下を見ると、血がこぼれていたのを見付け、四天王はその痕跡を追うことにしました。
北野(京都府京都市)の裏に大きな塚があるところで血が途絶えていたので、掘り返してみると、4尺(1.2m)もある大きな山蜘蛛が手傷を負って倒れていました。
四天王が山蜘蛛にとどめを刺したところ、源頼光の病が癒えたのです。病の元凶が、山蜘蛛だったことが分かり、これがきっかけで膝丸は「蜘蛛切」(くもきり)と名前が変えられたのでした。
源氏のもとを離れ熊野へ
次に刀が名を変えたのは、源為義(みなもとのためよし)に受け継がれたときのことです。
ある夜、この刀が突然吠え出しました。「蜘蛛切」は蛇のように、「鬼切」(おにきり:髭切の別名)は獅子のように鳴くので、それぞれの名前を「吼丸」(ほえまる)、「獅子の子」(ししのこ)と改めます。
この頃、源氏と平氏の間で合戦が起こるという噂が広まっていました。この噂は、都のみならず遠くの国・熊野を統括する教真(きょうしん)という人物の耳にも届きます。
教真は源為義の娘を娶ったことが原因で、源為義とは疎遠になっていました。それでも教真は合戦を案じて「私は不孝者だが、こんなときこそ駆け付ければ不孝も許されるかもしれない」と、援軍を連れて上洛(じょうらく:京都へ行くこと)。
教真が都に着くと「和泉や紀州にこんな大名はいないはずだが、誰だろう」などと人々から尋ねられ、名前を明かしたところ、源為義に知られることとなりました。
そこで源為義は「かいがいしい者だ。姓や素性は知らないが、どこの一門だ」と尋ねると、「実方中将(さねかたちゅうじょう)の末孫です」と答えたのです。
実方中将とは、平安時代の貴族で優れた歌人でもあった藤原実方(ふじわらのさねかた)のこと。それを聞いた源為義は、名家の血を継ぐ教真に対して「私が命令できるような相手ではなかった」と言い、初めて教真と対面し、その志に感じ入りました。
そして源為義は、源氏に伝わる名刀である吼丸を教真に進上しましたが、「私ごときが持つ物ではありません」と、熊野権現(くまのごんげん:熊野三山に祀られる神)に奉納しました。
源義経の手へ渡り、戦を制す
源義経
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)など数々の戦で平氏を追い込む活躍を見せたのが、源義経(みなもとのよしつね)です。
その頃、教真から熊野の地を継いでいた湛増(たんぞう)という人物は「源氏は私達の母方であり、源氏の世になることは素晴らしい。熊野権現に奉納されたという吼丸を使って、首尾良く平氏を滅ぼしてもらいたい」とはるばる都へ上り、吼丸を源義経に渡しました。
源義経はとても喜び、熊野から春の山々を分けて出てきたことから、吼丸を「薄緑」(うすみどり)と改名。
この名刀を手に入れて以降、平氏に従っていた山陰や山陽、南海や西海の兵達までも源氏に従属し、戦で勝ち進み、源義経は名を挙げていきます。
名刀にも直せなかった兄弟仲
源頼朝
源義経は平氏を討ち、兄である源頼朝(みなもとのよりとも)のいる鎌倉へと帰ります。しかし源頼朝は、戦上手な源義経が兵を率いて戻るふりをして裏切ると考え、鎌倉へ入ることを許されませんでした。
諦めて京へ戻る途中、源義経は箱根権現(はこねごんげん)に参詣して、兄弟仲が和らぐよう薄緑を奉納し祈りました。
しかしその甲斐もなく対立は深まり、源義経は妻と娘を殺したあと、31歳で自害します。その後、1193年(建久4年)になると、曾我祐成(そがすけなり)と曾我時致(そがときむね)の兄弟が親の敵であった工藤祐経(くどうすけつね)を仇討ちする事件が起こります。
これは赤穂浪士(あこうろうし)の仇討ちや伊賀越の仇討ちと並ぶ、日本三大仇討ちのひとつです。この鎌倉時代初期に起きたとされる事件の顛末は、作者不詳の「曾我物語」にもまとめられています。
2人は、箱根別当(はこねべっとう)から「兵庫鎖太刀」(ひょうごくさりたち)を授かり、望みを果たしましたが、この太刀こそ源義経の奉納した薄緑でした。そして、薄緑は源頼朝に召し上げられ、2振の刀剣は巡り巡ってまた同じ場所に戻されたのです。
現在、京都の大覚寺には重要文化財である薄緑が、神奈川県の箱根神社には「薄緑丸」が収蔵されています。
文献で語られる薄緑その物であるか、あるいは伝承にあやかり作られた物か、その真偽は分かりませんが、謎多き刀として今もなお人気を集めています。