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江戸幕府とは

関ヶ原の戦いに勝ち、江戸幕府成立

徳川家康

徳川家康

1598年(慶長3年)に「豊臣秀吉」が亡くなると、豊臣政権を支えた五大老の筆頭「徳川家康」は、天下取りの好機とばかりに、政治の実権を握り始めます。

豊臣政権の存続を願う「石田三成」(いしだみつなり)ら、豊臣秀吉の忠臣は、徳川家康による政権奪取の動きを察知し、徳川家康討伐のために挙兵。1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いとうたわれた「関ヶ原の戦い」が勃発しました。

全国の大名を巻き込んだ大規模な合戦であったにもかかわらず、徳川家康の入念な策謀により、戦いは半日で終結。関ヶ原の戦いは、徳川家康に軍配が上がります。勝利した徳川家康は、戦後処理として徳川派の諸大名は石高加増などで厚遇し、敵対した諸大名は減俸や改易(かいえき:領地没収)などにより、徹底的に排除していきました。

そして1603年(慶長8年)、徳川家康は征夷大将軍の宣下を受け、江戸(現在の東京都)に幕府を開き、江戸幕府が誕生しました。幕府の中心を江戸にしたのは、京都を中心とした朝廷からの干渉を避けるためだったと言われています。

江戸幕府を開いたあとも、徳川家康は、豊臣家の動向を注視していました。そして、1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年)の「大坂冬の陣夏の陣」により、豊臣家を滅亡させ、徳川幕府の権威を確固としたのです。

大名統制を強化し、幕藩体制の確立

江戸幕府は、10,000石以上を与えられた武士を大名とし、大名が管理する領地を「藩」(はん)と呼ぶ、幕藩体制を敷きました。

大名は、徳川家と血縁関係にある「親藩」、関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えており、幕政の要職にも採用される「譜代」、関ヶ原の戦い以降に徳川家に仕え、要職に就くことはできない「外様」に大別。藩の数については、増減はあるものの、平均して300程度ありました。

また、徳川家康は、大名の軍事力を制限する「一国一城令」や武家の守るべき義務を定めた「武家諸法度」を相次いで制定。武家諸法度は、将軍ごとに改定され、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)は、大名は1年おきに自国と江戸を往復し、将軍への謁見を義務付ける「参勤交代」を制度化しました。江戸から離れた土地を与えられた外様大名にとって、この参勤交代の出費は重く、さらに「江戸城」や城下町の整備も課されたため、外様大名の経済状況は常に窮迫していたと言われています。

政務を統括する老中や、若年寄、政務を監察する大目付などの役職は、親藩と譜代大名が独占。また、朝廷を監視するために「京都所司代」を設置し、「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定するなど、天皇や公家の行動を大きく制限しました。

3代 徳川家光
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265年の天下、盤石の徳川15代将軍

徳川家康は、征夷大将軍に就任後、わずか2年で将軍の地位を嫡男の「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に譲ります。この移譲には、江戸幕府は世襲制であることを、諸大名に知らしめる意味がありました。徳川家康の希望通り、江戸幕府は15代、265年にわたって徳川家による支配が続いていくのです。

初代将軍徳川家康から15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)まで、「徳川15代将軍」の主な事績を見ていきましょう。

初代 徳川家康
在任:1603年(慶長8年)~1605年(慶長10年)
人心掌握と忍耐により、天下を掌握したと言っても過言ではない徳川家康。幕府の基礎を固めるため、大名を徹底的に管理し、江戸城や城下町の再建と拡充、治水や五街道の整備など江戸の町づくりに注力しました。
2代 徳川秀忠
在任:1605年(慶長10年)~1623年(元和9年)
徳川家康の遺志を継ぎ、武家諸法度や禁中並公家諸法度の施行を徹底。幕府に歯向かう者は容赦なく処分しました。徳川秀忠は、江戸城や「大坂城」の大規模工事も敢行し、幕府の威厳を世に広く知らしめます。また、キリシタンの弾圧、貿易面の統制なども行ない中央集権に貢献しました。
3代 徳川家光
在任:1623年(元和9年)~1651年(慶安4年)
将軍を最高権力とし、老中、若年寄、奉行、大目付、評定所などの職務や権限を定めた幕府機構を確立。徳川家光は、大名に正室と子供の江戸常住と参勤交代を義務付け、大名支配を強化します。また、長崎の出島以外では外国との貿易を禁止することで、鎖国体制を確立しました。
4代 徳川家綱(とくがわいえつな)
在任:1651年(慶安4年)~1680年(延宝8年)
これまでの武力による「武断政治」から、武力によらず礼儀や法令を重視する「文治政治」へ転換させた「徳川家綱」。嫡子がない大名家を救う「末期養子禁止の緩和」や家臣や妻子が主君の死を追う「殉死」を禁止するなど、人命を尊ぶ政策を敷きました。
5代 徳川綱吉(とくがわつなよし)
在任:1680年(延宝8年)~1709年(宝永6年)
病人の保護や捨て子の禁止、動物保護を法令化するため135回も改定された「生類憐みの令」により「犬公方」と揶揄されることもある5代将軍です。「徳川綱吉」は儒学を奨励し、人権を重んじる法令を制定、江戸の治安維持に貢献した将軍と評価されています。
6代 徳川家宣(とくがわいえのぶ)
在任:1709年(宝永6年)~1712年(正徳2年)
在職わずか3年でこの世を去ったものの、優れた政治家と評価される「徳川家宣」。見識ある文官を重用し、5代将軍・徳川綱吉の政策も改定します。経費削減を狙い、朝鮮通信使の待遇簡素化や、大名の事績をまとめた「藩翰譜」(はんかんふ)の編纂も命じました。
7代 徳川家継(とくがわいえつぐ)
在任:1713年(正徳3年)~1716年(享保元年)
父の急逝により、わずか5歳で将軍職に就きます。徳川家宣の重臣「間部詮房」(まなべあきふさ)と「新井白石」(あらいはくせき)が政治を主導しました。「徳川家継」は、就任後3年、わずか8歳で急逝したため、「徳川宗家」の血統は、7代で断絶することとなりました。
8代 徳川吉宗(とくがわよしむね)
在任:1716年(享保元年)~1745年(延享2年)
親藩大名から将軍に就任。質素倹約の徹底、治水工事や新田開発による財政を確保した「享保の改革」を実行しました。さらに「徳川吉宗」は、庶民に意見を求めた「目安箱」や無料の医療施設の設置、裁判の基準となった「公事方御定書」の編纂も指示しました。
9代 徳川家重(とくがわいえしげ)
在任:1745年(延享2年)~1760年(宝暦10年)
幼いころから病弱で、言語不明瞭であったと言われる「徳川家重」。在任中は、飢餓や一揆に悩まされますが、「大岡忠光」(おおおかただみつ)と「田沼意次」(たぬまおきつぐ)を重用し、財務監査や予算制度の導入、酒造の統制など、多数の功績を残しています。
10代 徳川家治(とくがわいえはる)
在任:1760年(宝暦10年)~1786年(天明6年)
祖父の8代将軍・徳川吉宗に寵愛され、幼少から帝王学を学び、文武両道の才人として評価される「徳川家治」。政治面では田沼意次を側用人兼老中とし、農業よりも商業を重視する政策に移行。また、貨幣制度の統一や鎖国政策の緩和などを行ないました。
11代 徳川家斉(とくがわいえなり)
在任:1787年(天明7年)~1837年(天保8年)
老中首座に「松平定信」(まつだいらさだのぶ)を置き、農業を主軸にした経済政策に着手。緊縮財政や学問・風俗を取り締まった「寛政の改革」を行ないます。しかし、歴代最長在位でもある「徳川家斉」は、40人もの側室や贅沢な暮らしにより財政破綻を招いてしまいました。
12代 徳川家慶(とくがわいえよし)
在任:1837年(天保8年)~1853年(嘉永6年)
財政破綻を改めるべく、老中に「水野忠邦」(みずのただくに)を任命し「天保の改革」を断行。贅沢を禁止し、緩んだ風俗を取り締まります。また、「徳川家慶」は、若い「阿部正弘」(あべまさひろ)を老中に抜擢するなど、柔軟で先見の明があった人物と評価されています。
13代 徳川家定(とくがわいえさだ)
在任:1853年(嘉永6年)~1858年(安政5年)
アメリカ総領事「タウンゼント・ハリス」と謁見するなどしたものの、35歳の若さで病死。「徳川家定」が大老に任命した「井伊直弼」(いいなおすけ)は、天皇の許可「勅許」(ちょっきょ)を得ずに「日米修好通商条約」を締結してしまい、後々問題となりました。
14代 徳川家茂(とくがわいえもち)
在任:1858年(安政5年)~1866年(慶応2年)
13歳で将軍に就き、江戸幕府の弱体化を朝廷との連携によって安定させる「公武合体」(こうぶがったい)のため、皇女の「和宮」と結婚。将軍としては229年ぶりに上洛します。しかし「徳川家茂」は、「長州征伐」のため遠征していた大坂で、急死してしまいました。
15代 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
在任:1866年(慶応2年)~1867年(慶応3年)
欧州の行政組織を参考にした「慶応の改革」や、軍の整備、製鉄所の建設など、新体制による中央集権国家を目指しました。しかし、1867年(慶応3年)、徳川慶喜は明治天皇に政権を返上。「大政奉還」(たいせいほうかん)により、265年続いた江戸幕府に終止符を打ちました。

流通経済の発展

幕藩体制時は、支配階級である武士と、被支配階級の庶民とで、厳しい身分制度が敷かれていました。特に農村部では、幕府の収入増加のため、様々な法令により百姓を統制していきます。

ある程度の自治を認めながらも、5軒1組として年貢を課す連帯責任制度の「五人組」や、「田畑永代売買の禁止令」などにより、百姓の離村を防ぎ、税収を確保したのです。

また、街道や海上交通の整備により流通が発達。江戸や大坂、京都の巨大都市はもちろん、全国的に人や物の移動が可能となり、地方都市も発展していきます。

金や銀、銭貨も急速に浸透したことから金融業も起こるなど、産業や経済は、ますます成長。幕藩体制が安定したことにより、文化や学問、芸術に至るまで、著しい変化と発展を遂げていくのです。

江戸幕府により戦が減って安定した治世となりましたが、武士の帯刀など、刀鍛冶の需要は増えていきます。江戸の町には、全国から名工が集まり、また諸国の大名も、各自の城下町に刀鍛冶を招聘したため、鍛刀は全国へと広がっていきました。

庶民が主役の文化が大成

日光東照宮

日光東照宮

江戸時代初期は、国宝「日光東照宮」に代表される、大名を中心とした絢爛豪華な「寛永文化」(かんえいぶんか)が生まれました。

そして、幕藩体制が安定し、経済が発展していくと、上方(関西地方)の町人が中心となった「元禄文化」(げんろくぶんか)が誕生。「井原西鶴」(いはらさいかく)の浮世草子や、「松尾芭蕉」(まつおばしょう)の俳句など、現実世界を描いた作品が庶民の間に普及。「人形浄瑠璃」や「歌舞伎」などを芝居小屋で観劇することが庶民の娯楽となりました。

また、幕府は学問を奨励し、儒学が隆盛期を迎えます。動植物や農業技術の研究や、医学、天文学など実践的な学問も目覚ましく発展していくのです。そして、江戸時代中期から後期にかけては、江戸の町人が中心となった「化政文化」が花開きます。

寺子屋」(てらこや)の増加で、庶民の識字率や文化水準も大幅に成長。「十返舎一九」(じっぺんしゃいっく)の滑稽本「東海道中膝栗毛」(とうかいどうちゅうひざくりげ)や、「曲亭馬琴」(きょくていばきん)の長編大作「南総里見八犬伝」(なんそうさとみはっけんでん)などの小説が売れ、多色刷りの「浮世絵」版画が流行します。

皮肉や風刺が好まれ、「川柳」(せんりゅう)や「狂歌」(きょうか)により、時世を表現したのです。また、学問では、科学的、実証的な研究が進み、江戸幕府に対する批判的な思想や意見を持つ人々も増えていきました。

江戸幕府の衰退と滅亡

欧米の外圧と尊王攘夷論

ペリー来航

ペリー来航

江戸時代中期以降になると、諸藩は藩士を教育する施設「藩校」(はんこう)を設立します。他にも、蘭学や洋学など、学者が運営する私塾も増加しました。

また、日本古来の思想を研究する「国学」も広がりを見せ、天皇を敬い、外国を撃退しようとする思想「尊王攘夷論」(そんのうじょういろん)へと派生していきます。

尊王攘夷論が生まれた背景には、幕府の弱体化はもちろん、諸外国からの開国を求める圧迫も大きく影響しています。

1853年(嘉永6年)、アメリカの使節「マシュー・ペリー」が4隻の戦艦で、突如浦賀に来航。鎖国を敷いていた江戸幕府に、武力を用いて、開国を求めたのです。アメリカの近代的な軍事力を前に、成す術のない江戸幕府は、勅許がないまま「日米修好通商条約」に調印、実質的に鎖国体制に終止符を打ちます。

しかし、この調印は、異国嫌いだった「孝明天皇」の逆鱗に触れ、江戸幕府は朝廷をも敵に回してしまいました。さらに、「薩摩藩」(現在の鹿児島県)や「長州藩」(現在の山口県)などの外様大名が中心となった倒幕の動きが活発化し始めるのです。

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大政奉還と江戸幕府の終結

大政奉還

大政奉還

江戸幕府は、アメリカとの条約締結後、イギリスやロシア、オランダとも条約を結ぶことになりました。開国と貿易の影響は庶民にも及び、国内の経済はますます混乱していきます。

倒幕の危機を察した15代将軍徳川慶喜は、政権を朝廷に返還することで倒幕の圧力を脱し、徳川家を中心に政治体制を立て直すことを目論みます。1867年(慶応3年)、京都の「二条城」(にじょうじょう)において、大政奉還を行なったのです。

しかし、その後、徳川家が政権にかかわることを認めない薩摩藩や長州藩の働きによって、朝廷は「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)を発します。これは、大政奉還後も政治の実権を握っていた徳川家の実質的権力のはく奪を意味し、265年間続いた江戸幕府は終焉を迎えることとなりました。

二条城

3つの幕府(3幕府)の比較表