鎌倉幕府とは
平氏を倒し、全国政権へ
源頼朝_
平安時代末期の1180年(治承4年)、高位や高官を占める平氏に対する不満が高まる中、「後白河上皇」(ごしらかわじょうこう)の第3皇子「以仁王」(もちひとおう)が諸国の武士に「平氏討伐」の命を下します。これに応じて、源頼朝は伊豆で挙兵し、国内は「源平合戦」と呼ばれる内乱へ突入していきました。
源頼朝は、義弟である「源義経」(みなもとのよしつね)を平氏討伐に送り、自らは鎌倉に留まって関東地方の支配を固めていきます。
1185年(元歴2年)の「壇ノ浦の戦い」で、源義経が平氏を滅ぼすと、次に源頼朝は、源義経が幕府に背いたとして討伐に動きます。
1189年(文知5年)の「奥州合戦」により、源氏内の抵抗勢力を一掃した源頼朝は、武家の「棟梁」(諸国武士団の統率者)としての地位を確立、朝廷に迫り政治の実権を奪います。
また源義経の捜索を名目に、諸国へ「守護」(治安の維持と警察権の行使)と「地頭」(じとう:年貢の徴収や荘園の管理)を配置。さらに中央機関として、御家人(将軍に奉仕する武士)を統制する「侍所」、政務や財政事務を司る「政所」、裁判事務を担当する「問注所」を設置し、鎌倉幕府の体制を強化しました。
また、御家人に対しては、先祖伝来の土地を保障する「本領安堵」、御恩(新恩給与)と奉公の授受を確立する「封建制度」を整えます。そして、いよいよ1192年(建久3年)、源頼朝は朝廷から「征夷大将軍」に任命されました。
1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が朝廷の復権を図って挙兵すると、鎌倉幕府は京都を制圧し、後鳥羽上皇を配流。京都に「六波羅探題」を設置して、朝廷を監視下に置きました。このことにより、鎌倉幕府は西国にも影響力のある全国政権となったのです。
源氏直系将軍は3代のみ、執権政治をふるった北条氏
源頼朝の死後、源頼朝の妻、「北条政子」(ほうじょうまさこ)の一族、北条氏が台頭します。まずは、北条政子の父、「北条時政」(ほうじょうときまさ)が執権という役職に就き、将軍の補佐として政治の実権を握ったのです。
3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺され、源氏の直系が途絶えると、北条氏は京都から貴族を迎え、形式的な将軍としました。
また、3代執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)は、「御成敗式目」(ごせいばいしきもく:武士の習慣や道徳をもとにした法律)を制定、執権政治をより確固とします。
執権職は、その後も北条氏が独占。北条氏は、鎌倉幕府の最高権力者として専制を強めていきました。
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初代 源頼朝
- 在任:1192年(建久3年)~1199年(正治元年)
圧倒的なリーダーシップにより、江戸時代末期まで続くことになる武家政治を創始。組織作りの天才として知られています。
2代 源頼家(みなもとのよりいえ)
- 在任:1199年(正治元年)~1203年(建仁3年)
源頼朝の嫡男として家督を継ぎ、2代鎌倉殿(鎌倉幕府の棟梁)として君臨。北条氏と対立したため、祖父の「北条時政」(ほうじょうときまさ)により伊豆・修善寺に幽閉され、やがて謀殺されてしまいます。
3代 源実朝
- 在任:1202年(建仁2年)~1219年(承久元年)
源頼朝の次男、12歳で征夷大将軍に任命。実権を握る北条氏に対して、政所を中心に将軍権力の拡大に努めましたが、1219年(健保7年)、実の兄の子「公暁」(くぎょう)によって暗殺されてしまいました。
4代 藤原頼経(ふじわらのよりつね)
- 在任:1226年(嘉禄2年)~1244年(寛元2年)
2代執権「北条義時」の要請で4代将軍に就任。関白「九条道家」(くじょうみちいえ)の子で、源頼朝の遠縁にあたります。将軍権力の伸長を図ると、北条氏と対立関係となり、失脚させられました。
5代 藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)
- 在任:1244年(寛元2年)~1252年(建長4年)
藤原頼経の嫡男。4代執権「北条経時」(ほうじょうつねとき)の策略により、父である藤原頼経より将軍職を譲り受けます。しかし、1252年(建長4年)には、5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)に追放され、京都へ下りました。
6代 宗尊親王(むねたかしんのう)
- 在任:1252年(建長4年)~1266年(文永3年)
1252年(建長4年)、11歳で征夷大将軍の宣下を受け、初めての皇族将軍となりますが、北条氏の専制体制のため、なんの権限も与えられませんでした。和歌に精通し、「続・古今和歌集」には数多くの和歌が納められています。 - 在任:1266年(文永3年)~1289年(正応2年)
わずか3歳で征夷大将軍に就任。北条氏の操り人形のような将軍であったにもかかわらず、同一将軍の長期政権を嫌う、9代執権「北条貞時」(ほうじょうさだとき)により解任させられ、晩年は嵯峨に隠棲、出家しました。
8代 久明親王(ひさあきしんのう)
- 在任:1289年(正応2年)~1308年(延慶元年)
14歳で征夷大将軍に就任。19年もの在任期間がありますが、惟康親王と同じく、長期の同一将軍の在任を嫌う北条貞時により追放されてしまいます。
9代 守邦親王
- 在任:1308年(延慶元年)~1333年(元弘3年)
わずか8歳で征夷大将軍に任じられますが、1333年(元弘3年)、鎌倉幕府滅亡と共に、将軍職を辞して出家。同年33歳の若さで亡くなります。
武士や庶民に支持される鎌倉文化が開花
円覚寺舎利殿
鎌倉時代は、公家の流れを受け継ぎつつも、武家政権らしく、武士や庶民の気風を感じる、素朴で質実剛健な文化が花開きます。
修行も悟りも失われるという末法思想、そして社会的不安を背景に、新たな仏教が新興。念仏を唱えることで救われるとした「法然」(ほうねん)による「浄土宗」は、悪人も往生できると説いた「親鸞」(しんらん)の「浄土真宗」、踊り念仏を広めた「一遍」(いっぺん)の「時宗」などに派生していきます。
また、修行を重視する「禅宗」は武士に支持され、「道元」(どうげん)の「曹洞宗」と共に、鎌倉幕府からの庇護を受けました。出生にかかわらず、念仏を唱えたり、座禅を組むなど修行に励んだりすることで救われると説いたこれらの宗教は、庶民の間にも瞬く間に広がっていったのです。
建築様式においては、宋(当時の中国)の技術を取り入れた「東大寺」の再建、今日も残る国宝「円覚寺舎利殿」(えんがくじしゃりでん)など、重要な文化財が数多く生まれています。
武士が政権を握ったことで、刀剣の需要は必然的に高まり、刀鍛冶も急増しました。鎌倉時代初期の日本刀は、平安時代後期の高尚で優美な姿を継承。鎌倉時代中期になると、日本刀は豪壮な姿へと様変わりします。
さらに、鎌倉時代後期は「元寇」を受け、戦闘様式が「一騎打ち」から「集団戦」へと変化。日本刀の欠点が明らかとなり、さらなる進化を遂げたのです。
鎌倉幕府の衰退と滅亡
2度に及ぶ元寇
チンギス・ハン
北条氏が幕政の専制化を強める中、ユーラシア大陸では、「チンギス・ハン」による「モンゴル帝国」が成立します。
孫の「フビライ・ハン」の時代には、朝鮮や中国までも支配下に置き、国号を「元」と定めました。そして、日本にも「朝貢」(ちょうこう:外国の使者に対して貢物を差し出すこと)を求めた国書を送り、元への服属を要求してきたのです。
国書を見た8代執権「北条時宗」(ほうじょうときむね)はこれを黙殺。日本の対応に業を煮やした元軍は、2度にわたって攻撃を仕掛けてきました。1274年の「文永の役」、そして1281年の「弘安の役」を合わせて「元寇」(蒙古襲来)と呼びます。
鎌倉幕府の滅亡
足利尊氏
元寇による危機をなんとか脱した鎌倉幕府でしたが、褒賞のない戦争や沿岸の警備を担当しなければならなかった御家人達の間で、鎌倉幕府に対する不満が募っていきました。
これを契機とばかりに、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は倒幕に立ち上がりますが、あえなく失敗。後醍醐天皇は、鎌倉幕府により隠岐へ流刑となります。
しかし、後醍醐天皇の側近であった「楠木正成」(くすのきまさしげ)が挙兵すると、全国の武士も呼応するように、倒幕のため各地で挙兵。また鎌倉幕府より、後醍醐天皇討伐の命を受けていた「足利尊氏」(あしかがたかうじ)も六波羅探題を攻撃し、幕府軍に反旗を翻したのです。
さらに1333年(元弘3年)、「新田義貞」(にったよしさだ)が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府は滅亡となりました。