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美濃伝

日本全国における刀の5つの生産地に伝わる鍛法「五箇伝」(ごかでん)の中で、最も新しい時代に発達した「美濃伝」(みのでん)。南北朝時代、そして戦国時代において、美濃国(現在の岐阜県南部)で急速に発展を遂げた伝法です。 美濃伝がどのような背景を経て興隆していったのか、その歴史や特色を見ていくと共に、「刀剣ワールド財団」所蔵の美濃刀についても解説します。

美濃伝は大和伝と相州伝のハイブリッド!?

美濃伝

美濃伝

美濃伝の歴史は、鎌倉時代中期頃に、伯耆国(現在の鳥取県中西部)出身の刀匠「初代 元重」(しょだい もとしげ)が、美濃国・関(現在の岐阜県関市)に移住して来たことが始まり。

関では「焼刃土」(やきばつち)の品質が高かったことや、刀の作刀には欠かせない「松炭」(まつずみ)を入手しやすい風土であったことなどが、その理由として挙げられます。

しかし、これらは憶測の域を出ず、また、元重自身も不明な点が多い刀工です。そのため美濃伝の実質的な始祖は、南北朝時代に入ってから美濃国へ移住した2人の刀匠、「志津三郎兼氏」(しづさぶろうかねうじ)と「金重」(きんじゅう/かねしげ)とされています。

兼氏は、「大和伝」(やまとでん)の刀工一門「手掻派」(てがいは)の刀工でしたが、建武年間(1234~1238年)に志津郷(しづごう:現在の岐阜県海津市)へ、そして金重は、貞治年間(1362~1368年)に、越前国(現在の福井県北東部)から関へ移って来ています。両者は「相州伝」(そうしゅうでん)の刀匠、「正宗」(まさむね)の影響を大きく受けた名工。

その作刀技術は非常に優れており、正宗の10人の高弟「正宗十哲」(まさむねじってつ)に数えられるほど、高い評価を得ていたのです。元来、美濃に伝わっていた鍛法は大和伝系でしたが、兼氏と金重によって相州伝の技法が加味されるようになり、美濃伝の基礎が築かれます。

さらに美濃国では、越前国から「為継」(ためつぐ)が赤坂(現在の岐阜県大垣市)に、大和国(現在の奈良県)から「包光」(かねみつ)が関へと移住。このように美濃伝は、全国から名工達が集まったことによって、隆盛を極めていくことになります。

その背景となったのは、美濃国が交通の要衝であったこと。美濃国は、幕府のあった鎌倉を含む関東や奥州(現在の東北地方北西部)などの東国と、朝廷のあった京都などの西国を結ぶ中継地の役割を果たしていました。

また美濃国は、「室町幕府」を開いた「足利将軍家」を支える「土岐氏」(ときし)が支配していた場所。さらには「斎藤家」など、美濃国の豪族が戦を繰り返し、周辺にある尾張国(現在の愛知県西部)の「織田家」や、甲斐国(現在の山梨県)の「武田家」といった有力な戦国大名達が、その勢力を振るって対立していました。

室町時代には、美濃国内外がこのような状況にあったことから、美濃伝の刀工達は、捌き切れない(さばききれない)ほど大量に刀の注文を受けていたのです。なお、この当時の美濃国では、関の地に刀工達が集中しており、その作刀は「関物」(せきもの)と称されています。

1467年(文正2年/応仁元年)の「応仁の乱」(おうにんのらん)を境にして、戦国時代に突入すると、刀の需要が大幅に拡大。そして、五箇伝の中で最大の勢力を誇っていた「備前伝」(びぜんでん)が、1590年(天正18年)の大洪水により壊滅すると、同伝の次に刀工数の多かった美濃の地が、刀における最大の生産地となったのです。

美濃伝の鍛法によって戦国時代に作られた刀は、総称して「末関物」(すえせきもの)と呼ばれています。末関物の美濃刀は、増大した刀の需要に応えるため、姿の美しさよりも実用向きであることが重視されており、多くの武士達が重宝していました。

美濃伝に共通する特色

地蔵帽子(横手筋)

地蔵帽子(横手筋)

美濃伝の特色は、作刀の多くが「太刀」(たち)ではなく、「打刀」(うちがたな)であったこと。太刀は、馬上戦が主流となっていた平安時代後期から南北朝時代頃まで用いられていました。

しかし、美濃伝が最も繁栄した室町時代以降は、徒歩での戦闘様式が主流となります。そのため、接近戦でも刀身を「」(さや)から迅速に抜くために、反りが浅く刀身の長さが短い実用的な姿の打刀が多く作刀されるようになっていたのです。

そんな美濃伝の作風は、「帽子」に大きな特徴が見られます。美濃伝の帽子は、「横手筋」(よこてすじ)の辺りから湾れ(のたれ)、乱れ込んで丸く返る刃文が、まるで地蔵が座る様を横から観たような形状になっていることから、「地蔵帽子」と呼ばれているのです。

また美濃伝の刃文は、「匂本位」(においほんい)を基本とし、「互の目」(ぐのめ)に「丁子」(ちょうじ)や「尖り刃」(とがりば)が交じっています。ただし、初期の兼氏や金重などの刀工は、相州伝の鍛法を取り入れているため、「沸本位」(にえほんい)の作風になっているので注意が必要です。さらに「地鉄」(じがね)は、「杢目」(もくめ)の地肌でありながら「棟寄り」(むねより)に流れて「柾目」(まさめ)が現れ、良く錬れていることが特徴になっています。

美濃伝を代表する名工とその作刀

刀の作刀における最新の伝法として、戦国武将達の需要に応えるべく発達した美濃伝。ここからは、刀剣ワールド財団が所蔵する美濃刀の中でも、美濃伝を代表する名工が手掛けた刀をいくつかご紹介します。

刀 無銘 伝志津(切付け銘有り)

本刀は美濃伝の祖として、その伝法を確立させた名工・志津三郎兼氏が、作刀したと鑑せられる刀です。志津三郎兼氏は、相州伝を学んだ正宗十哲の中で、正宗の作風を最も良く受け継いだ刀工としても知られています。なお、志津三郎兼氏の没後は、その弟子達が「直江村」(なおえむら)に移住。そこで形成された「志津系」の一門は、「直江志津」と称されているのです。

本刀においていちばんに目を引くのが、「大鋒/大切先」(おおきっさき)の部分。この鋒/切先により、本刀の姿が荘厳な印象になっています。また、「匂口」(においぐち)が深くなっており、鋒/切先の形状と併せて、南北朝時代に流行した刀の特色を良く示す1振です。

本刀の「」は、「切付け銘」(きりつけめい:伝来や切れ味などについての経歴を、後世になってから入れた銘のこと)になっており、このように長文である銘は、他にはあまり観られないため非常に貴重であると言えます。

刀 無銘 伝志津(切付け銘有り)
刀 無銘 伝志津(切付け銘有り)

霊力不放身
委細アリ 売借質
懸阿鼻嶽令
金打於
今生違之者
八幡大菩薩御罰可蒙也
吉原量風

鑑定区分

重要美術品

刃長

67

所蔵・伝来

刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

短刀 銘 金重

「関鍛冶の祖」とも称される金重は、元々は越前国にあった寺院の僧侶でした。61歳で正宗の門下に入ったあと関の地に移り住み、美濃伝の発展に大きく貢献した名工です。

短刀は、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)の長男「徳川徳松」(とくがわとくまつ)の誕生を祝い、旗本(はたもと)として幕府に仕えていた「曽我仲祐」(そがなかすけ)が、「徳川将軍家」に贈った1振。

帽子が掃掛け(はきかけ)て、小互の目(こぐのめ)が連なる「乱刃/乱れ刃」(みだれば)の刃文に小湾れ(このたれ)が交じるなど、金重における作風の特徴が顕著に示されています。現代にまで残されている金重の在銘作は非常に稀有であり、正宗一門の作風を窺い知るための資料としても、高い価値のある作品です。

短刀 銘 金重
短刀 銘 金重

金重

鑑定区分

重要刀剣

刃長

28.5

所蔵・伝来

曽我仲祐 →
徳川家
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

刀 銘 和泉守兼定 作(之定)

本刀は元々、「紀州徳川家」に仕えた家老「三浦将監」(みうらしょうげん)が所持していた1振です。本刀を手掛けた「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)は、全国にいた刀匠の中で初めて、官位「和泉守」を公家より受領した2代 兼定に当たります。

同工の特徴は、ウ冠に「之」の字を書く「㝎」の銘を用いていること。そのため、通称「之定」(のさだ)とも呼ばれていたのです。また之定は、切れ味のランク付けにおける最高位「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に列せられていました。

実際に之定の作刀は切れ味の良さに定評があり、本刀の差裏にある金象嵌銘の「二ツ胴」は、死刑となった罪人の胴体を、試し切りの際に2つ重ねて切ったことを表しているのです。このように高品質な之定の刀は、多くの戦国武将達に好んで用いられていました。

本刀は、室町時代末期における通常の打刀に比べて、広い身幅の姿であることが特徴。刃文は、にぎやかな互の目にところどころ沸が付くなど、華やかで覇気が感じられ、同工の才能が存分に発揮されている最高傑作です。

刀 銘 和泉守兼定作(金象嵌)二ツ胴 三浦将監所持
刀 銘 和泉守兼定作(金象嵌)二ツ胴 三浦将監所持

和泉守兼定作
(金象嵌)
二ツ胴
三浦将監所持

鑑定区分

特別重要刀剣

刃長

65.2

所蔵・伝来

紀州徳川家の家老 三浦将監→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

和泉守兼定
刀工「和泉守兼定」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

刀 銘 兼元

刀 銘 兼元」は、室町時代後期に活躍した刀工「兼元」(かねもと)が作刀した日本刀。

本刀の作刀者である兼元は、「関の孫六」(せきのまごろく)や「孫六兼元」(まごろくかねもと)の通称で知られる名工。兼元と銘を切った刀工は複数いますが、孫六兼元はこのうち2代目に当たる人物で、歴代兼元のなかでも随一の技量に優れていたことから、美濃伝を代表する名工として名を馳せました。

兼元に共通して見られる特徴と言えば、「三本杉」(さんぼんすぎ)と呼ばれる刃文。三本杉とは、互の目の頭が3つ置きに深く焼かれている様子のこと。この刃文は、のちの刀工へ大きな影響を与えており、様々な刀工が三本杉を模した刃文を焼いています。

刀 銘 兼元
刀 銘 兼元

兼元

鑑定区分

重要刀剣

刃長

75.7

所蔵・伝来

刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕