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初代将軍/足利尊氏

「足利尊氏」(あしかがたかうじ)は、室町時代に15代にわたって中央政府に君臨し続けた足利将軍家の祖であり、室町幕府を開いた初代征夷大将軍です。足利家はもともと、河内源氏の流れである名門御家人の一家であり、鎌倉時代に源氏が3代で滅びたあとも、鎌倉幕府内で重要な地位にいました。当時、足利家は鎌倉幕府の執権・北条氏と血縁関係となることで家格を保ちながら、強権政治を行う北条氏に代わるリーダーとして、周囲から期待されていたのです。そして、足利家8代目当主である足利尊氏は、見事に鎌倉幕府を滅ぼし、将軍の地位を手に入れることとなります。足利尊氏の将軍宣下までの道のりを振り返るとともに、足利尊氏が将軍として生きた室町時代と南北朝時代をご紹介します。

太平記
足利尊氏が主人公の大河ドラマ「太平記」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。

足利尊氏の生い立ち

足利尊氏

足利尊氏

足利尊氏」(あしかがたかうじ)は、1305年(嘉元3年)に鎌倉幕府御家人の「足利貞氏」(あしかがさだうじ)の次男として誕生します。

1319年(元応元年)、15歳で従五位下(じゅごいげ)の位階となって元服した際、鎌倉幕府第14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)から「高」の字を賜り、初名の「又太郎」(またたろう)から「足利高氏」(あしかがたかうじ)と名乗りました。当時、足利家は北条氏一族の次に位置する家格を持っていたため、足利尊氏も幼い頃から幕府内で優遇されていたと考えられています。

さらに、足利尊氏は、北条氏の中でも権威を持つ赤橋流北条氏にあたる「北条守時」(ほうじょうもりとき)の妹「赤橋登子」(あかはしとうし/あかはしなりこ)を正室に迎えることに。北条守時は、のちに六波羅探題(ろくはらたんだい:幕府が京都に設置した機関)から鎌倉幕府最後の執権に就きますが、そののち、義弟である足利尊氏によって幕府を滅ぼされることとなります。このときは、両家ともにそのような運命が待っているとは思いもしなかったのでしょう。

そして、1331年(元弘元年)に足利尊氏の父・足利貞氏が亡くなると、先に亡くなっていた兄「足利高義」(あしかがたかよし)に代わり、足利尊氏が27歳で家督を継ぎ当主となりました。

足利尊氏の家系図・年表
足利尊氏の生涯を年表で振り返るとともに、家系図の繫がる縁者をご紹介します。

足利尊氏の寝返りと鎌倉幕府の滅亡

後醍醐天皇

後醍醐天皇

足利尊氏が足利家8代目当主となった1331年(元弘元年)に、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は御所を出て笠置山(かさぎやま)で倒幕の挙兵を起こします。

これに対し、鎌倉幕府は足利尊氏に幕府軍の大将として挙兵の要請を出すことに。

足利尊氏は幕命に従い、笠置山を包囲して後醍醐天皇を陥落させたあと、「楠木正成」(くすのきまさしげ)が挙兵した「下赤坂城」(しもあかさかじょう:現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)での戦いにも参戦し、反乱を鎮圧させました。これらの「元弘の乱」での戦功で、足利尊氏は大将として名声を得ることとなったのです。

1333年(元弘3年)、廃位されて隠岐島(おきのしま)に流されていた後醍醐天皇は、伯耆国船上山(ほうきのくにせんじょうさん:現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に逃亡し、再び挙兵します。これを受けて、足利尊氏も再び幕府軍として討伐するために上洛するのです。

しかし、丹波国篠村(現在の京都府亀岡市)に着陣すると、足利尊氏は情勢を見て鎌倉幕府を見限り、反幕府軍につくことを決意します。そして、後醍醐天皇の綸旨(りんじ:天皇の意向を受けて作成した文書)を受けた足利尊氏は、北条氏討伐の挙兵を起こし、諸国に倒幕軍挙兵要請の令状を発布。足利尊氏の反乱によって倒幕軍の機運が高まり、要請に応じた諸将とともに足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼしました。

さらに、足利尊氏の挙兵から2週間後、関東では足利家と同族の「新田義貞」(にったよしさだ)らの蜂起によって、鎌倉幕府が陥落することに。こうして、北条氏一族とともに鎌倉幕府は滅亡しました。

後醍醐天皇との対立

帰京した後醍醐天皇は、自らの廃位をなかったことにして、幕府という機関を廃止させます。こうして、後醍醐天皇によって「建武の新政」が始まると、足利尊氏は倒幕における一番の功労者として手厚い恩賞を受けました。このとき、後醍醐天皇の諱(いみな:実名)である「尊治」(たかはる)から「尊氏」という名を賜ることに。ところが、足利尊氏が政権で要職に就くことはなく、代わりに弟の「足利直義」(あしかがただよし)や家臣を政権に送り込みました。

1335年(建武2年)に、北条氏残党による「中先代の乱」(なかせんだいのらん)が鎌倉で勃発。足利尊氏は、北条氏残党を討伐するために、後醍醐天皇に征夷大将軍の任官を望みましたが、却下されてしまいます。しかし、足利尊氏は朝廷の許可を得ないまま鎌倉へ向かい、足利直義と合流して乱を鎮めます。天皇の親政で恩恵を受けられない武士達の不満もピークに達していたこともあり、この足利尊氏の行動をきっかけに、後醍醐天皇と足利尊氏達はすれ違い始めるのです。

そして、乱の鎮圧後、足利尊氏は上洛の命令に背いたまま鎌倉に留まり、弟の足利直義とともに武士達に勝手に恩賞を与え始めます。このような足利家による武家政権を恐れた後醍醐天皇は、かつて足利尊氏とともに鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞を呼び付け、足利尊氏討伐の命令を下します。

これを受けて足利尊氏は、一度は隠居を受け入れたものの、弟の足利直義のためにも朝敵となることを決意。こうして、足利尊氏は1336年(建武3年)に討伐軍との戦いを繰り広げ、「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)では楠木正成と新田義貞による連合軍を打ち破ります。

幕府の成立と南北朝時代の幕開け

ついに京都を制圧した足利尊氏は、比叡山に逃亡していた後醍醐天皇に対し、「光明天皇」(こうみょうてんのう)へ在位を譲ることを条件に和睦を申し出ます。後醍醐天皇はこの条件を受け入れ、ここに新たな武家政権が確立されることとなりました。

こうして、1338年(暦応元年)に足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、新たな幕府が成立しました。足利尊氏は将軍として家臣から慕われていましたが、このとき実際に政務を行っていたのは、弟の足利直義だったと言われています。

一方、大和国吉野(現在の奈良県吉野町)に逃れた後醍醐天皇は、この地で独自の政権を展開して、南朝を開きます。これにより、後醍醐天皇の南朝と光明天皇の北朝が対立する南北朝時代へと突入するのです。しかし、幕府成立の翌年の1339年(暦応2年)に後醍醐天皇は崩御することに。これに対し、足利尊氏は長い間対立関係にあった後醍醐天皇を弔うために、京都に「天龍寺」(てんりゅうじ:京都市右京区)を建立しました。

ちなみに、後醍醐天皇が存命していた南朝では、裏切り者である足利尊氏のことを文書で記すときに、かつて自身が授けた「尊氏」という名を使わずに、「高氏」と呼び続けていたと言われています。後醍醐天皇は、自身を裏切った足利尊氏を長年恨み続けていたのでしょう。

南北朝問題は兄弟合戦でもあった?

弟・足利直義との決別

足利直義

足利直義

後醍醐天皇の崩御後、南北朝は統一に向かうどころか、さらなる混乱の渦に包まれます。足利尊氏一派は、ともに武家政権を率いてきた弟である足利直義と次第に関係を悪化させ、足利家の内部抗争である「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)へと発展。

この戦いで、反足利直義派は足利直義を幕府から追放させ、足利尊氏と足利直義による両頭政治は崩壊することに。その後、南朝を取り込んだ足利直義との戦いは続いたものの、両派は和睦して足利直義を政権に復帰させます。

しかし、一度壊れた関係は両派の家臣にも響き、完全に修復することは困難でした。その結果、足利直義は政権を放棄して京都から鎌倉へと逃亡。一方、足利尊氏は、1351年(観応2年)に南朝に和議を申し出て、足利直義の討伐に向かいます。足利直義との戦いに勝利した足利尊氏は、鎌倉で足利直義を捕らえ幽閉します。こうして、南北朝を取り込んだ兄弟合戦に決着がつき、1352年(正平7年)に足利直義の死によって収束を見せました。

ところが、そのあとも南朝との和議はすぐに破られ、足利尊氏は後継である嫡男「足利義詮」(あしかがよしあきら)とともに、再び南北朝の争いに挑みます。その最中、1358年(延文3年)に足利尊氏は京都で病に倒れ、この世を去ることに。死因は、背中にできた腫瘍の悪化によるものだと考えられています。

主君、天皇、弟との関係に揺れ動いた人生を送った足利尊氏は、最期まで南北朝の統一を果たすことができませんでした。そして、この南北朝問題は後継へと引き継がれていったのです。

足利尊氏の人物相関図

足利尊氏の生涯にかかわった人物は数多くいますが、ここでは特に重要な人物を「人物相関図」で分かりやすくご紹介します。

足利尊氏の人物相関図

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