2代将軍/源頼家
偉大な父と、老獪な御家人衆の間で
就任3ヵ月で権力を奪われる
源頼家
1199年(正治元年)に偉大な父である源頼朝が急死すると、征夷大将軍の権威と権力はすべて源頼家が継承することになりました。
しかしそれからわずか3ヵ月後、源頼家はその権力を奪われ、すべての重要事項は「大江広元」(おおえひろもと)や「北条時政」(ほうじょうときまさ)、「北条義時」(ほうじょうよしとき:北条時政の子)ら13人の御家人による合議制で決するという体制になってしまいました。
2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、これがテーマとなっています。名目上は若い源頼家を補佐するためでしたが、実際には源頼家から政権を取り上げることが目的。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。
独裁者はもう要らない
御家人達は、源頼朝がいなくても幕府という組織が機能することに気付いていたのです。鎌倉幕府は、江戸幕府のように絶対的な権力者である将軍がいたわけではなく、将軍は朝廷に対する武士団の代表という位置付けに過ぎませんでした。その地位を担保していたのが「御恩と奉公」という契約です。
御恩とは将軍が御家人に土地を与え、所有を保証することであり、御家人はその代価として、いざというときに自分の武力を提供して奉公する。このギブアンドテイクの関係によって成り立っていたのが鎌倉幕府だったのです。
平安時代末期に平氏と激しい戦いを繰り広げた頃は、源頼朝のようなシンボル的な人物が武士団を強引に率いていくことが不可欠でした。しかし朝廷から政治の実権を奪取した今となっては、将軍は実権を持たずとも、将軍を補佐する御家人に政治を任せていればよかったのです。
北条氏と比企氏の対立
比企能員
しかも、そこに御家人同士の勢力争いがからんでいました。以前、源頼朝は源頼家の乳母父(めのとぶ:教育係)として数名の武士を選任しています。そのひとりが源平合戦の頃から源頼朝を支えた家臣、「比企能員」(ひきよしかず)です。
当時は御家人同士の勢力の差はほとんどありませんでしたが、比企能員の娘「若狭局」(わかさのつぼね)が源頼家に嫁ぎ、「一幡」(いちまん)という男児が生まれたことで、比企能員が圧倒的に有利になりました。そのまま一幡が次の将軍になれば、比企能員は将軍の外祖父(がいそふ:天皇または将軍における母方の父のこと)として政治に対する発言力が強まるからです。
一方、源頼家には「千幡」(せんまん:のちの3代将軍源実朝[みなもとのさねとも])という歳の離れた弟がおり、こちらは北条時政が後見人となっていました。これにより、幕府内は源頼家・比企能員グループと、千幡・北条時政グループに分かれて対立状態にあったのです。13人の合議制になったのは、どちらか一方に権力を集中させないという目的もありました。
若き将軍の憂鬱な日々
比企能員の変
将軍でありながら権力を取り上げられた源頼家は政治への情熱を失い、毎日自宅で蹴鞠(けまり)に興じました。しかし1203年(建仁3年)のある日、源頼家は急な病に倒れ、一時的に危篤状態になります。こうなるとさっそく浮上したのが、次の将軍を誰にするかという問題。
これによって比企能員(一幡の外祖父)と、北条時政(千幡の外祖父)の対立が一気に表面化します。北条時政は千幡が全国を支配することを発表し、朝廷に対して千幡を将軍にする働きかけを開始。これに怒った比企能員は、重体を脱した源頼家に報告。
2人で北条時政の暗殺を企てます。しかし、これが北条氏に漏れ、比企氏は一族全員、女・子供にいたるまで全員が殺されてしまいました。このとき、若狭局と一幡も捕らえられて殺されています。これを「比企能員の変」と呼びます。
すべてを失った将軍
病床で妻子まで殺されたという知らせを聞いた源頼家は激怒し、周囲の御家人に北条時政の討伐を命じますが、命に応じて立ち上がる者はいませんでした。それどころか北条時政によって将軍職を解かれた源頼家は、無理やり出家(しゅっけ:仏僧となること)させられ、伊豆の修善寺(しゅぜんじ)に幽閉させられてしまいます。
後日、源頼家は「北条政子」(ほうじょうまさこ:源頼家の母)に「1人でいるのは寂しいので、私に仕えていた近習[きんじゅ:そばに仕える部下]をよこしてほしい」とお願いしますが、北条政子は拒否。しかもその近習達まで流罪にしてしまいました。その翌年、北条氏が送り込んだ刺客によって源頼家は暗殺され、23年という短い命を終えました。
吾妻鏡が語る源頼家の奇行
部下の美人妻を拉致する
「吾妻鏡」(鎌倉時代後期に成立した鎌倉時代の歴史書)には、源頼家の奇行について記されています。これによると、権力を奪われた反発から、源頼家は自分に年齢の近い「小笠原長経」(おがさわらながつね)、「比企宗員」(ひきむねかず:比企能員の子)ら5名の近習を指名し、この者どもを通さない連絡は受けないと発表。
またその5人に対して、有力御家人の「安達景盛」(あだちかげもり)の留守に、美人として名高かったその妻を連れて来させ、我がものにしてしまいました。当然、安達景盛は激怒しますが、源頼家は逆にそれを謀反とみなして安達景盛の討伐を命じます。
このときは北条政子が「ならば私を先に殺しなさい」と割って入ったために事件は収まりました。他にも幕府を支えてきた有力御家人から領地を取り上げ、領地を持っていない自分の近習に分け与えようとしたこともありました。
こうした源頼家の奇妙な行動が御家人に不安を抱かせ、権力を制限されることにつながったのだと吾妻鏡には書かれています。
源頼家の奇行は北条氏の言い訳
吾妻鏡の作者は分かっていませんが、歴史書として完成に近づいた鎌倉時代後期は、北条家が最高権力者の地位をほしいままにしていた時期。そのため、北条氏に不都合なことは書かれていません。
そう考えると、源頼家の数々の奇行も「こんな人物だから権力を奪われても仕方ない」という、吾妻鏡を書かせた北条氏の言い訳とも考えられます。将軍になっても思うように手腕を振るえず、源頼家が悩んでいたことは想像に難くありません。
自分に年齢の近い近習を必要以上にかわいがったことや、部下の妻を強奪したことは、源頼家の私設軍団の力を御家人達にアピールするという目的があったとも解釈できます。
偉大な父の幻影と、老獪な有力御家人達の間にはさまれ、若き大将が命を落としたとしたら哀れでなりません。