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山本勘助の歴史

山本勘助の武将年表
戦国武将「山本勘助」の出生から最期までを年表でご紹介します。

武者修行から武田家臣へ

山本勘助のイラスト

山本勘助

山本勘助は、1493年(明応2年)、もしくは1500年(明応9年)に三河国(現在の愛知県東部)、または駿河国(現在の静岡県東部)で生まれたと言われています。

諸国を巡って兵法(へいほう:戦闘に関する学問)や築城術などを極めましたが、色黒で隻眼(せきがん:片目)、背が低く、手指や足が不自由と、ひどく風采の上がらない見た目だったため、40歳を過ぎても牢人(ろうにん:浪人)のままでした。

山本勘助の生涯については、いまだ解明されていないことも多く、伝説と謎に満ちた人物として現代に語り継がれています。

現に、山本勘助について記載された書物は、唯一「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん:江戸時代に編纂された軍書。武田信玄から武田勝頼[たけだかつより]までの功績や合戦、刑政、軍法などを記した書物)のみです。

甲陽軍鑑によると、山本勘助の幼名は「源助」(げんすけ)。

今川家の家臣、「山本貞幸」(やまもとさだゆき)の子として誕生し、12歳で牛久保城(愛知県)の城主牧野家家臣、「大林勘左衛門」(おおばやしかんざえもん)の養子となり、「勘助春幸」(かんすけはるゆき)に改名しています。

一説によれば、大林家で過ごしたこの時代に兵法を学んでいたとされているのです。

20歳になると、山本勘助は武者修行の旅へ出ます。5年後25歳の頃には、伊賀忍術のルーツとも呼ばれている山伏兵法(やまぶしへいほう)を学ぶために、真言宗の総本山「高野山」に参籠。併せて摩利支天像(まりしてんぞう)を授かり、自身の守護神に定め、その後も四国、山陰、山陽、九州などの諸国を巡り、各地の大名に仕えながら武術や兵法の修行に励みます。全国にある城を検分し、築城に関する知識を身に付けたのもこの頃のことです。

大林家に帰参したのは34~35歳。武者修行から戻ると大林家に男子が誕生していたため離縁し山本姓に改め、次は関東方面に武者修行の旅へ出ます。

1536年(天文5年)には、駿河の「今川義元」(いまがわよしもと)への仕官を希望しますが、今川家では山本勘助の醜い外見や、片目及び手足が不自由であったこと、供ひとり連れていなかったことから、追い返されてしまいます。これは、体裁を気にする今川氏に山本勘助が仕えることを疎んじ嫌ったことが原因です。

今川氏への仕官を諦めた山本勘助は、自身を雇ってくれる仕官先を求めて再度放浪したのち、さらに牢人暮らしは続きました。

そして運命の出会いは、1543年(天文12年)。山本勘助の噂を聞きつけたのちの武田信玄、まだ23歳の若き日の「武田信晴」(たけだのぶはる)に、破格の知行200貫で召し抱えられてようやく、50歳前後にして仕官することが叶ったのです。

当時、武田軍は甲斐を統一したばかりであり、他の国への進出もまだ着手以前。山本勘助の登場は、武田信玄、及び武田軍の起爆剤であり、躍進の原動力になったことは言うまでもありません。

しかし、武田信玄と言えども、素性の分からない者を破格の待遇で登用するだろうか?という疑問は残ります。

実は山本勘助の家系は、「清和源氏」(せいわげんじ)の流れを汲む駿河源氏・吉野氏の子孫だとする説があり、吉野氏の親戚である武田家一門・穴山氏とのつながりから推挙されたとも言われています。

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山本勘助の活躍と最期

武田信玄と上杉謙信

武田信玄と上杉謙信

武田信玄に仕官してからの山本勘助は、持ち前の情報収集能力と天才的な戦略、優れた築城術で頭角を現し、活躍しました。

1546年(天文15年)、北信濃(現在の長野県北部)の豪族・村上氏の戸石城(砥石城)攻めに従軍します。

村上軍の激しい応戦で武田軍は総崩れとなりますが、山本勘助の策で形勢逆転、武田軍を勝利に導きました。この戦功により、山本勘助は、知行800貫の足軽大将に取り立てられます。

村上氏が越後の「上杉謙信」を頼ったことから、1553年(天文22年)、武田信玄と上杉謙信の間で北信濃を巡って合戦が始まりました。これが「川中島の戦い」です。この戦いは10年間に5度行なわれた合戦の総称ですが、第4次川中島の戦い以外は、小競り合いで終わっています。唯一の本格的な戦となった第4次合戦が、山本勘助の最後の戦となったのです。

山本勘助は、川中島に「海津城(松代城)」を築城し、武田軍の拠点とします。

1561年(永禄4年)、上杉軍が海津城の向かいにある「妻女山」(さいじょさん)に布陣したことから、山本勘助は兵を2手に分けて別働隊により妻女山を襲撃し、山を降りた上杉軍を八幡原(はちまんばら)に布陣した本隊と別働隊で挟み撃ちにするという作戦を立てます。

この作戦は、キツツキが木をつついて、驚いて木の中から飛び出した虫を食べることに似ていることから「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)と名付けられました。

ところが、山本勘助の作戦は上杉謙信に見破られ、別働隊が到着したときには、妻女山はもぬけの殻。慌てて本隊の待つ八幡原に向かいますが、別働隊より少ない武田軍本隊は、上杉軍の総攻撃を受け、武田信玄の弟の「武田信繁」(たけだのぶしげ)をはじめとする武将達が何人も討ち死にし、大きな損害を出しました。

武田軍を窮地に追い込んだ責任を感じた山本勘助は、死を決意して敵陣に突入し、自ら大太刀を抜いて戦いますが、四方を上杉軍に囲まれ、体中を槍で突かれるという壮絶な最期を迎えます。

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名軍師たる所以

「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄が率いる武田軍は、戦国最強であったとも言われています。その武田軍で、山本勘助は参謀として活躍していました。

ここでは、山本勘助が残した策や戦術、築城術、分国法などを簡単に解説。山本勘助が「名軍師」と呼ばれている所以に迫ります。

諏訪支配の妙策

山本勘助が武田信玄に「常識はずれ」とも言える提案をしたのは1542年(天文11年)、「諏訪攻め」のあとでした。

この戦いで、武田信玄が自害に追い込んだ「諏訪頼重」(すわよりしげ)のひとり娘を側室に迎えるように推薦。このあと押しもあり、美人の誉れ高かったことから「諏訪御料人」(すわごりょうにん) と呼ばれていた諏訪家の姫は、武田信玄の側室となりました。

攻め滅ぼした相手の娘を側室として迎え入れる行為は危険を伴います。しかし山本勘助は、諏訪家の姫(諏訪御料人)に武田信玄の子を産ませ、親戚関係になることで、諏訪衆を武田軍に心服させられると考えたのです。

この妙策は、のちの諏訪支配の切り札となる武田勝頼の誕生に繋がり、武田信玄没後の武田氏の運命をも決める、山本勘助による初めての献策となりました。

戸石崩れ(砥石崩れ):破軍建返し

武田信玄

武田信玄

戦国時代屈指の強さを誇った武田信玄の、唯一と言っても良い大失策として語り継がれているのが「戸石崩れ(砥石崩れ)」です。

1550年(天文19年)、武田信玄は信濃国(現在の長野県)北部を治めていた「村上義清」(むらかみよしきよ)の拠点「戸石城」(砥石城)に攻め込みました。

しかし、城の防御が予想以上に堅固(けんご:守りが堅く、攻められても容易には破られないこと)だったこともあり、「横田高松」(よこたたかとし)らの重臣が落命するなど大苦戦。武田軍は、武田信玄自身が戦場の最前線で戦わなければならない窮地に追い込まれました。

この絶体絶命の危機的状況を救ったのが山本勘助でした。武田信玄に対して「勝利する方法がひとつだけあります」と申し出た山本勘助は、「両角虎定」(もろずみとらさだ)が率いる50騎の隊を借り受けて、本陣に模した陣を形成したのです。

これを徐々に南下させたことで、武田信玄軍が息を吹き返したと勘違いした村上軍は混乱。これに乗じた武田軍は、立て直すことができたのです。

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要塞構築術:山本勘助入道道鬼流兵法

松代城跡(海津城)

松代城跡(海津城)

武田二十四将のひとりであり、武田五名臣のひとりでもある山本勘助は、伝説的な軍師として広く知られていますが、築城術にも長けていました。

山本勘助が築いた代表的な城は、伊那の「高遠城」(長野県)、佐久の「小諸城」(長野県)、「海津城」(長野県)。甲陽軍鑑には、山本勘助の最大の特技は城造りであるとの記述があり、武田信玄にもその築城の手腕を評価され、武田家に登用されたと言われています。

山本勘助の築城術は、「山本勘助入道道鬼流兵法」(やまもとかんすけにゅうどうどうきりゅうへいほう)と呼ばれ、高い防御力を第一に考えた、戦略の要塞として機能する城造りを得意としていました。

分国法:甲州法度之次第

「甲州法度之次第」(こうしゅうはっとのしだい)とは、1547年(天文16年)に武田信玄が制定した、家臣団の統制や領国支配のための分国法です。

最大の特徴は、甲州法度之次第の下では主君も家臣も関係なく、平等に扱われること。つまり定められた法律に背けば、たとえ武田信玄であっても処罰の対象になるということです。

有名な言葉としては、「喧嘩両成敗」。 長期間に亘って駿河に逗留した山本勘助が、「今川仮名目録」をもとにして軍事・行政・司法を規定した上巻、倫理・武道・兵法・礼儀作法を規定した下巻に分けて編纂した分国法であると考えられています。

小山団扇

「小山団扇」(こやまうちわ)は、徳川将軍家や天皇にも献上されていた、大阪府藤井寺市の伝統工芸品です。

秘伝の製造方法は、一子相伝の技術として代々継承され続けていましたが、1970年(昭和45年)の後継者死亡により、小山団扇の歴史と技術も途絶えてしまいました。

近年では、藤井寺市商工会が小山団扇復活を目指し取り組まれています。そんな小山団扇ですが、そのルーツは山本勘助とも言われているのです。

小山団扇の起源は戦国時代にあり、当時、武田氏の参謀を務めていた山本勘助は、三好氏の動向を探るために藤井寺市小山地区に潜伏しています。その際、三好氏や近隣住民から怪しまれないように隠れみの(かくれみの:実体を隠すための手段)の職業として製造、及び販売していたのが、小山団扇です。

もしかすると、自らの正体を隠すために興した職業が後世になって伝統工芸品として残されることまで、山本勘助の頭には想像されていたことなのかもしれません。

大河ドラマの功績

甲陽軍鑑

甲陽軍鑑

山本勘助の存在は、近年まで甲斐武田家の軍学書・甲陽軍鑑によってのみ確認され、それ以外の戦国から江戸時代の史料には記されていませんでした。

一時は甲陽軍鑑そのものの信憑性も疑われていたため、山本勘助も架空の人物というのが定説に。ところが、その説に一石を投じる事件が起きたのです。

1969年(昭和44年)NHKの大河ドラマ「天と地と」で、武田信玄の花押(かおう:署名の代わりに書いた一種の記号)の入った書状を観た視聴者が、「うちにも同じ物がある」と先祖伝来の古文書を図書館に持ち込み、鑑定の結果、真物であると判定されました。

その武田信玄の書状「市河文書」(いちかわもんじょ)には、「勘」の字は異なるものの、「山本菅助」という名が記載されていたのです。この出来事によって、架空の人物とされていた山本勘助の実在が、図らずも証明されることとなりました。

しかし、この発見は研究者の間でも大きな議論を呼び、山本「菅助」が本当に山本「勘助」のことを指し、この両名が同一人物であるのかは、いまだに見解が分かれています。それでも、少なくともこの発見によって、武田信玄の下には「ヤマモトカンスケ」という人物が従事していたという事実が判明したと言えるのです。

2008年(平成20年)には、群馬県安中市原市の旧家・真下家において、武田信玄が山本菅助に宛てて作成した文書が2通発見されています。文書が発見された場所の旧家名から「真下家所蔵文書」(ましもけしょぞうもんじょ)と呼ばれており、これをきっかけに山本勘助に関する研究が急速に進展。

2通あるうちの1通については、1548年(天文17年)の信州伊那での山本菅助の働きぶりをほめたたえ、武田信玄自らが恩賞を伝える内容でした。もう1通については、時期こそ不明ではありますが、武田信玄が山本菅助に対して軍事作戦の検討を命じる文書であり、本文中で武田信玄が「揺(ゆらぎ:軍事作戦)については、よく検討するように」と指示していることから、山本菅助が軍略を担っていたことが窺えます。

現在、真下家所蔵文書2通は、群馬県「学習の森ふるさと学習館」の行なわれる企画展などで一般公開されています。いずれにしても、山本勘助という人物には謎が多く残されており、今後の研究や発見などによっては新たな事実も判明していくことでしょう。

山本勘助の死後

1561年(永禄4年)、第4次川中島の戦いで討ち死にした山本勘助が葬られている墓は、現在、牛久保城のあった愛知県と武田氏ゆかりの地である長野県に2ヵ所残されています。

武運山長谷寺

「長谷寺」(ちょうこくじ)は、愛知県豊川市牛久保町にある寺院です。生前から和尚である、「念宗法印」と親交があった山本勘助は、武田信玄の下に仕官する際、遺髪(いはつ:死者の形見として残された髪の毛)を託していました。

その後、川中島の戦いで山本勘助が戦死すると、その死を悼んだ念宗法印によって遺髪が埋められ「五輪の墓」が建立されており、山本勘助が守護神にしていた摩利支天像(まりしてんぞう)についても一緒に安置されています。

勘助塚 (山本勘助の墓)

勘助の死後、長野県長野市松代町にある「陣ヶ瀬東高畑」(じんがせひがしたかばたけ)に五輪塔が建立され、葬られています。

「勘助塚」(かんすけづか)という名称は、同町東寺尾に存在する地籍にも由来しており、本格的な墓碑が建立されたのは1739年(元文4年)のことです。

墓碑は、千曲川沿いにあった「信州柴阿弥陀堂」(しんしゅうしばあみだどう)の境内に山本勘助の遺骨を移す形で建立され、1809年(文化6年)の山本勘助没後250年には、中台が設けられた現在の形である石積み造りの墓として整備されました。

ヤマカンの由来

こうして実在については確認された山本勘助ですが、天才的軍師としてのイメージや彼の残した功績は、甲陽軍鑑や江戸時代の講談等での脚色とも言われ、その実像はよく分かっていません。

「あてずっぽうなこと」を「山勘」(ヤマカン)と言いますが、由来は「山師の勘」だと言われています。山師(やまし)は鉱脈を掘りあてる人のことで、その博打(ばくち)的な職業形態から、「ペテン師」を指す言葉としても使われるようになり、転じて、山勘には「人をごまかす行ない」・「詐欺」という意味も含められるようになりました。

実は山勘には、山本勘助の名前から来たという説もあります。山本勘助の生没年以前からこの言葉が使われているため、現在この説は疑問視されていますが、そんな説が唱えられるほど、山本勘助は「計略に長けた天才肌の軍師」というイメージが作られていたのです。

山本勘助の家紋

左三つ巴

左三つ巴

山本勘助の家紋は、「左三つ巴」(ひだりみつどもえ)です。

この左三つ巴紋を使用していた戦国武将は数多く、山本勘助以外にも「宇都宮広綱」(うつのみやひろつな)、「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)などの武将が使用しています。

諸説ありますが、「巴」(ともえ)という言葉は、弓を引く際に腕を保護するために用いる武具、鞆(とも:弓具の一種。弓を引く人の左手首に結び付け、矢を放つ衝撃を防ぐために使用する道具)を図案化した模様、「鞆絵」(ともえ)に由来。渦巻き型の紋様には、陰陽思想が反映されています。

日本においては、巴という名の付く家紋は40種類以上存在していますが、その中でも左三つ巴紋は神紋(しんもん:神社で用いられる固有の紋)として尊重されており、神社やお祭りなどで目にする機会も多い家紋のひとつです。

刀 銘 備前国住長船与三左衛門尉祐定同次郎左衛門尉勝光作

山本勘助の愛刀として知られている1振が、「備前国住長船与三左衛門尉祐定同次郎左衛門尉勝光作」というが切られた日本刀です。

山本勘助によって「秋葉山本宮 秋葉神社」(あきばさんほんぐう あきばじんじゃ:静岡県浜松市)に奉納されました。

銘に切られているように、本刀は「与左衛門尉祐定」(よざえもんのじょうすけさだ)と「次郎左衛門尉勝光」(じろうさえもんのじょうかつみつ)の合作。共に室町時代後期の備前長船派を代表する刀工だと言われています。

刀 銘 備前国住長船与三左衛門慰祐定同二郎左衛門慰勝光作

刀 銘 備前国住長船与三左衛門尉祐定同次郎左衛門尉勝光作

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