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静御前

「源義経」(みなもとのよしつね)の側室として知られる「静御前」(しずかごぜん)。2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」において、「石橋静河」(いしばししずか)さんが演じたことで注目を集めましたが、その半生は謎に包まれた部分が多い人物です。謡曲(能の詞章や脚本部分、及び声楽部分のこと)の「二人静」(ふたりしずか)や、浄瑠璃の「義経千本桜」の主題となった静御前の生涯を、歴史書「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)などを通して紐解きながら、静御前と源義経にまつわる逸話についてもご説明します。

源義経と共にした静御前の生涯

静御前が演じた白拍子とは

生没年など、その出自には不詳な点が多い「静御前」(しずかごぜん)。鎌倉幕府における事跡を記した「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)によれば、その母親は、「白拍子」(しらびょうし)であった「磯禅師」(いそのぜんじ)別称「磯野禅尼」(いそのぜんに)だと伝えられています。

白拍子とは、平安時代後期に発祥し、鎌倉時代頃まで流行した歌舞の一種であり、それを演じる遊女のこと。白拍子は、「立烏帽子」(たてえぼし)と「水干」(すいかん:水張りにして干した布で作った狩衣[かりぎぬ]の一種)を纏い、太刀(たち)を腰に佩く(はく)男装で、「今様」(いまよう:主に七・五調4句で構成される新様式の歌謡)を謡って舞う芸を生業(なりわい)にしていました。

大和国磯野(現在の奈良県大和高田市)、もしくは讃岐国小磯(現在の香川県東かがわ市)出身と言われる磯禅師は、自身でも白拍子として活躍しながら、京都の貴族のもとへ白拍子を派遣していたのです。そんな母の子供であった静御前は、その影響を強く受け、当代随一と評される白拍子に成長しました。

静御前と源義経の意外な出会いとは?

貴族の宴席などに花を添えていた白拍子。そんな彼女達が身分の異なる貴族に見初められることは、珍しい話ではなかったと伝えられています。

源義経

源義経

白拍子の静御前と由緒正しい「源氏」の武将である「源義経」(みなもとのよしつね)の出会いは、宴席などではない少し意外な場所でした。

それは、干ばつが続いた1182年(養和2年/寿永元年)のこと。雨乞いのために静御前は、「住吉神社」で白拍子を舞っていました。

これを見物していた源義経は、誰もが振り返るほどの美人であった静御前にひと目惚れ。自身の側室として召し抱えることにしたのです。

これは、源義経とその家臣達について書かれた軍記物語「義経記」(ぎけいき)に記述のある逸話。同書は、室町時代前期に成立したと推測されていますが、その詳細な時期や作者については分かっていません。そのため、この静御前と源義経の出会いについても創作であると考えられています。しかし静御前は、このような伝説が残るほどに見目麗しい女性であったことが窺えるのです。

なお、静御前にはさらに驚くべき伝説があります。これは、前述した住吉神社で雨乞いをする少し前のお話。77代天皇「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)が雨を祈願するため、「神泉苑」(しんせんえん:現在の京都市中京区)の池に、静御前を含む100人の白拍子を呼んで舞わせます。ところが、99人目までが踊り終えても、何の変化も見られませんでした。そんななか、最後のひとりとなった静御前が舞うと、瞬く間に黒雲が出現。それから3日間、雨が降り続いたのです。

何とも不可思議なお話ですが、このような伝承が語り継がれていることは、静御前が白拍子として、トップクラスの実力を持っていたことの表れであると言えます。

最期の舞と歌に見る源義経への愛

源頼朝

源頼朝

静御前を側室として迎え入れた源義経は、「平氏討伐」を掲げて繰り広げた「屋島の戦い」(やしまのたたかい)や「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)など、「源平合戦」別称「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)において目覚ましい活躍を見せます。

それにもかかわらず、次第に源義経は、鎌倉幕府初代将軍で異母兄の「源頼朝」(みなもとのよりとも)と仲違いするようになりました。

これは源義経が、源頼朝の許しを得ずに後白河法皇より官位を賜っただけでなく、「平氏」との戦いの際に身勝手な行動をしたことなどにより、源頼朝の不興を買ったことが理由であったと考えられているのです。

こうして源頼朝に追われる身となった源義経は、1185年(元暦2年/文治元年)11月、九州へ都落ちすることを決意します。源義経は大物浦(だいもつうら:現在の兵庫県尼崎市)より船を出しますが、暴風雨に遭い座礁。吾妻鏡によれば、静御前はこの船に同乗していたとされ、身を隠すため源義経と共に吉野山(よしのやま:現在の奈良県)へ入ったと伝えられているのです。

5日間ほど同山に潜んでいた静御前でしたが、その身を案じた源義経より、京都へ向かうように命じられます。ところが、その道中で従者に金品を奪われ、「金峯山寺蔵王堂」(きんぷせんじざおうどう:奈良県吉野郡吉野町)に辿り着いたところで、僧兵に捕らえられてしまったのです。そののち、「北条時政」(ほうじょうときまさ)へ引渡された静御前は、1186年(文治2年)3月、母・磯禅師と共に鎌倉へ送られています。

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮

同年4月8日に静御前は、源頼朝の妻「北条政子」(ほうじょうまさこ)の所望により、白拍子を披露するように源頼朝から命じられました。

あまり気が進まなかった静御前は何度も断りましたが、「鶴岡八幡宮」(現在の神奈川県鎌倉市)に奉納するという条件で承諾。

その披露の場では、「鎌倉殿の13人」にも登場した伊豆の武士、「工藤祐経」(くどうすけつね)が鼓(つづみ)を打ち、同じく武蔵国(現在の埼玉県東京都23区、及び神奈川県の一部)の若武者「畠山重忠」(はたけやましげただ)が、銅拍子(どびょうし)を務めたと伝えられているのです。

このときに静御前は、次のような2つの歌を謡っています。

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

(吉野山に積もる白い雪を踏み分けて、山の奥深くに入ってしまわれたあの人[源義経]が恋しい)

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

(静、静と繰り返し私の名前を呼んだあの人が輝いていた頃に、もう一度戻れたらどんなに良いことだろう)

これを聴いた源頼朝は、激しい怒りを露にします。当初静御前は、源氏を称賛する舞を披露するように命じられていました。しかしそれに反して静御前は、源義経を恋い慕う歌を謡ったのです。源義経と対立していた源頼朝の前で、源義経を想う歌を謡った静御前は、どんな状況にも怯む(ひるむ)ことなく、自分の意思を貫く性格の持ち主であったと言えます。静御前は、源頼朝に処罰されてしまうかと思われましたが、「私が静御前の立場なら、きっと同じことをする」と北条政子が取り成したことにより、命を救われました。

実は、このときの静御前は源義経の子を妊娠中。それを知った源頼朝は、「生まれた子供が女児であれば助命するが、男児であれば殺害する」と静御前に伝えます。そして1186年(文治2年)閏7月29日に、静御前は男児を出産。その赤子は源頼朝に仕える家臣の手に渡り、由比ヶ浜(ゆいがはま)に沈められてしまったのです。

北条政子と大姫

北条政子と大姫

同年9月16日に静御前は、母と共に京都へ帰されました。その際、北条政子と娘の「大姫」(おおひめ)は、たくさんの貴重な宝物を持たせたと言います。

普段は冷徹な性格であったと伝えられている北条政子が静御前にそこまでしてあげたのは、生まれたばかりの我が子から引き離されようとしたときに、大泣きして拒絶した静御前のことを、気の毒に思ったからかもしれません。

また、静御前は京都へ戻ることなく、我が子を追って由比ヶ浜へ入水したとする説もあります。

いずれにしても、静御前の最期について明確に記された史料は残されていないため、その真偽のほどは誰にも分からないのです。

静御前のお墓は日本各地にある?

ここまでご説明した通り、謎に包まれた部分が多い静御前の生涯。そのため、静御前の終焉の地と言われる場所は、長野県茨城県、兵庫県など十数ヵ所に及んでいます。

それらのひとつとして挙げられるのが、福島県郡山市。ここには、源義経の訃報に接した静御前が、悲しみのあまり身を投げたという伝承がある「美女池」(びじょがいけ)や、静御前を供養するために建てられた「静御前堂」(しずかごぜんどう)があります。

この他に静御前の終焉の地として知られているのが、新潟県長岡市です。静御前は、平泉(現在の岩手県西磐井郡平泉町)に落ち延びた源義経を追っていた道中で病を患ったため、長岡の地で逗留(とうりゅう:旅先などに一定期間滞在すること)します。従者達が必死に看病しましたが、静御前はそのまま帰らぬ人となってしまいました。そして静御前の霊を弔うため、従者達により、小高い丘のふもとに庵が造られたのです。

現在その庵があった場所には、静御前の墓と石塔が建立されています。

鎌倉殿の13人で静御前を演じる「石橋静河」さん

石橋静河さん(静御前役)

石橋静河さん(静御前役)

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人で静御前役を務めるのは、女優の「石橋静河」(いしばししずか)さんです。

前述した通り、静御前は源義経の前で白拍子を舞って見初められた女性。そのため静御前を演じるには、やはり踊りの技術が求められます。

その点、石橋静河さんは4歳よりクラシックバレエを習い、15歳で海外のバレエスクールへ留学。帰国後はコンテンポラリーダンサーとして活動するなど、役者さんとしてだけでなく、踊りの方面でも申し分ない経歴の持ち主です。

石橋静河さんが静御前に扮することが発覚したのは、大河ドラマ鎌倉殿の13人の放送開始後、約2ヵ月経った2022年(令和4年)3月1日。SNSの公式アカウントで第6次出演者発表が行われ、静御前役が石橋静河さんであることが判明しました。これを受けてSNS上には、「踊りが上手で名前も同じ[しずか]だなんて、本当にぴったり!」、「石橋静河さんが静御前を演じるのはハマり役。早く観てみたい!」など、キャスティングに納得した声が多く寄せられ、大反響を呼んだのです。

さらに、大河ドラマ鎌倉殿の13人の静御前がSNS上を沸かせたのは、4月24日放送の第16回「伝説の幕開け」の最後に次回予告が流れたときのこと。5月1日放送の第17回「助命と宿命」で白拍子を舞う静御前と共に、その姿を目の前で観た源義経(演:菅田将暉[すだまさき]さん)が、静御前があまりにも美人であったために目を見開く様子が映ったのです。その時間はほんの一瞬でしたが、SNSでは「予告の静御前が綺麗だった!次回も楽しみ!」、「来週ついに静御前が現れる!やっぱり欠かせない人物」といった投稿が相次ぎました。

実際の放送に登場する前からこのような期待の声が集まったのは、踊りの技術と演技力、そして美しさもかね備えた石橋静河さんが、静御前にふさわしい役者さんであることの表れであるとも言えるのです。