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藤原秀衡(ふじわらのひでひら)

奥州藤原氏と源平合戦

奥羽地方の主として辣腕を振るう

藤原秀衡

藤原秀衡

「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)の生まれ年については明確には分かっていません。歴史の表舞台に登場するのは、1157年(保元2年)に父である「藤原基衡」(ふじわらのもとひら)の死去により家督を相続したときです。

藤原秀衡は家督を継いで奥羽地方(奥州と羽州:現在の東北地方)の主(あるじ)になり、軍事・警察の権限を持つ官職の押領使(おうりょうし)となりました。

当時は、1159年(平治元年)の「平治の乱」に勝利した平氏が全盛期を迎え、京で権勢を振るっていましたが、奥州藤原氏は独自の勢力を保持。この頃、奥州の中心地であった平泉(現在の岩手県西磐井郡平泉町)は平安京に次ぐ人口を有し、仏教文化が花開く大都市でした。

藤原秀衡は奥州産の馬と金(きん)に支えられた豊かな財力を背景に、都へ馬や金を貢いだ他、寺社への寄進などを行い存在感を示しています。また、陸奥守(むつのかみ)として都より赴任した「藤原基成」(ふじわらのもとなり)の娘を継室(けいしつ:後妻)とし、中央政界とのつながりを持ちました。

1170年(嘉応2年)には従五位下・鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん:奥州に置かれた軍政府の長官)に叙任。都の貴族達は藤原秀衡の財力を認め、その勢力を恐れていましたが、しょせんは都から遠い地方の豪族と下に見ていたと言われています。

源義経の庇護者となった藤原秀衡

源義経

源義経

1175~1177年(安元年間)の頃、藤原秀衡は「鞍馬寺」(くらまでら:現在の京都市左京区)を出奔した源氏の御曹司「源義経」(みなもとのよしつね)を庇護することになりました。

源義経は、平治の乱で父の「源義朝」(みなもとのよしとも)が敗死したあと、母と同母兄らと共に大和国(現在の奈良県)へ逃亡。そののち、鞍馬寺に預けられましたが、僧侶になることを拒否して寺を出ると、父母の代より縁のある藤原秀衡を頼って平泉まで下ってきたのです。

そんな源義経は、1180年(治承4年)に兄の源頼朝が平氏打倒を掲げて鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)で挙兵したと聞き、兄のもとへ向かうことを決意。藤原秀衡は強く引き止めますが、源義経は黙って館を出てしまいます。藤原秀衡は思い留まらせることをあきらめ、家臣の「佐藤継信」(さとうつぐのぶ)・「佐藤忠信」(さとうただのぶ)兄弟を供として付け送り出しました。

治承・寿永の乱には参戦せず

治承・寿永の乱」、いわゆる「源平合戦」が激しさを増していくなか、1181年(養和元年)8月に、藤原秀衡は従五位上・陸奥守に叙任されます。これは「平清盛」(たいらのきよもり)亡きあと平氏の棟梁となった「平宗盛」(たいらのむねもり)の推挙によってなされましたが、その目的は挙兵した源頼朝や「源義仲」(みなもとのよしなか:木曽義仲[きそよしなか]とも)を牽制することにありました。

しかし藤原秀衡は、こうした平氏の「官位を与えて加勢させる」という思惑に乗ることはなかったのです。普段は見下しているにもかかわらず、自分達が必要なときにだけ奥州藤原氏を頼ろうとする姿勢は、とても納得できるものではありません。また、源氏側の源義仲から動員要請があったときも、藤原秀衡は動きませんでした。

その一方で、平氏軍によって焼き討ちされた「東大寺」(現在の奈良県奈良市)再建のために多額の資金を納めるなどして、京の諸勢力との関係を維持。藤原秀衡の的確に情勢を読んで対処する外交手腕により、奥州藤原氏は源氏と平氏の争いに巻き込まれることなく平和と独立を保ち続けることができたのです。

源頼朝との対立

源頼朝の無理難題により関係が悪化

源頼朝

源頼朝

1185年(元暦2年/寿永4年)の「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅びると、権力を掌握した源頼朝は奥州藤原氏に対する態度を変えてきました。

それまで奥州藤原氏が直接京都へ献上してきた馬や金を、源頼朝が仲介すると言い出したのです。これは、藤原秀衡を源頼朝の下位に位置付けるという無礼な申し出でした。

藤原秀衡は源頼朝との衝突を避けるために、やむを得ず要求に従いますが、胸の内では源頼朝との衝突はもはや避けられないだろうと覚悟を決めます。

この頃、源頼朝と源義経はすでに対立した状態にあり、源義経は追われる身となっていました。1187年(文治3年)2月、藤原秀衡は逃れてきた源義経を匿うことになります。

1187年(文治3年)4月になると、源頼朝の要求は度を超えてきました。朝廷を通して、「鹿ヶ谷の陰謀[ししがたにのいんぼう]で平清盛により奥州へ配流となった中原基兼[なかはらのもとかね]を無理に引き留めず京へ帰すこと」や、「東大寺再建のための資金をさらに30,000両納めること」などを要求。

これに対して藤原秀衡は、中原基兼は本人の意志で留まっていること、また資金について30,000両は多すぎるため応じられないことなどを返答します。しかし、そのあとも源頼朝の要求はエスカレートするばかりか、源義経を匿っていることを悟られ、藤原秀衡は反逆者と見なされてしまいました。

源頼朝との対立が悪化した状況を改善できないまま、1187年(文治3年)10月、藤原秀衡は病気により没します。

藤原秀衡の死後に奥州藤原氏が滅亡

家督は正室の次男「藤原泰衡」(ふじわらのやすひら)が継承しましたが、側室の長男「藤原国衡」(ふじわらのくにひら)も、その存在感によって一族から大きな期待を集めていました。

この異母兄弟の仲は良好とは言えなかったため、藤原秀衡は源頼朝が藤原国衡を味方に引き込み、奥州藤原氏の分裂を図るのではないかと懸念していたのです。そこで、「源義経を主君として3人で結束し、源頼朝の攻撃に備えよ」と源義経、藤原泰衡、藤原国衡に遺言していました。

藤原秀衡の想いとは裏腹に、源頼朝は藤原泰衡に対して源義経追討を要求。この圧力に屈した藤原泰衡は、源義経が起居していた館を襲撃し、源義経と妻子、家臣達を自害へと追い込みます。こうして源頼朝への恭順を示したものの、源頼朝は「源義経を長らく匿っていたこと」、そして「許可なく源義経を討伐したこと」を理由として奥州征伐を決行。源頼朝自身が率いる大軍の攻撃により奥州藤原氏は滅亡しました。藤原国衡は討死。敗走した藤原泰衡は郎党(従者)に裏切られて殺害されています。

奥州藤原氏は、藤原秀衡の死から2年後の1189年(文治5年)、その歴史に幕を閉じたのです。

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藤原秀衡の家系図

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