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松平広忠の歴史

松平広忠の系譜と生い立ち

松平広忠

松平広忠

徳川家康の実父である松平広忠は、室町時代から戦国時代の三河国(現在の愛知県東部)の土豪である「松平信光」(まつだいらのぶみつ)の子孫にあたります。

松平氏の中でも、松平信光の息子が「安祥城」(あんじょうじょう:愛知県安城市)を拠点に興した「安祥松平氏」で、戦国時代に勢力を拡大させて松平宗家となった家系です。

松平宗家8代当主である松平広忠は、1526年(大永6年)に松平宗家7代「松平清康」(まつだいらきよやす)と「青木貞景」の娘の長男として誕生しました。

幼名は徳川家康と同じく「竹千代」(たけちよ)だったと言われていますが、史料によっては「仙千代」(せんちよ)、「千松丸」(せんまつまる)とも記されています。

通称は「次郎三郎」(じろうさぶろう)や「岡崎三郎」(おかざきさぶろう)でした。

1535年(天文4年)、父の松平清康が織田氏の「森山城」(名古屋市守山区)を攻めていた際、家臣の「阿部正豊」(あべまさとよ)に斬り殺されるという事件が起きます。この「森山崩れ」によって、松平広忠は10歳で父を失い、波乱万丈な武将人生が幕を開けることとなるのです。

松平広忠の岡崎城奪還計画

父の死後、松平広忠はわずか10歳で織田軍を迎え討ちます。岡崎の「井野田の戦い」では10分の1の兵力で織田軍に対抗し、死にもの狂いで白兵戦(はくへいせん:敵と接近し、刀や剣槍などの武器を交えて戦うこと)を繰り広げた末、織田軍と和睦することに成功。松平広忠は重臣らとともに、多勢の織田軍から見事、松平宗家を守り抜きました。

ところが、幼い松平広忠に、今度は松平一族から魔の手が忍び寄ります。碧海郡「桜井城」(愛知県安城市桜井)を拠点とする桜井松平氏の「松平信定」が岡崎へ侵攻し、松平広忠を追い出して岡崎城を占拠してしまったのです。

こうして、岡崎城を追われた松平広忠は、少数の家臣とともに伊勢や遠江掛塚(とおとうみかけづか:現在の静岡県磐田市)を流浪して逃亡生活を送ることに。この間、松平広忠に心を寄せる者達によって、岡崎城奪還の計画が練られます。

計画が進むなかで、1536年(天文5年)9月に「牟呂城」(むろじょう:愛知県西尾市)に入ると、岡崎城を占拠する松平信定から攻撃を受けます。「三河物語」(みかわものがたり)によると、この戦いで主君と家臣による秘密のやり取りがあったことが描かれています。

岡崎城に残留していた松平宗家譜代の家臣「大久保忠俊」(おおくぼただとし)は、松平広忠に向かって悪口を叫びながら一矢を放ちました。これに対し、松平広忠も「主君の矢を受けてみよ」と射返します。

実は、2人が射った矢には書状が隠されており、岡崎城奪還を決行する日付が書かれていたのです。このように、岡崎城で工作を進めていた大久保忠俊を中心に岡崎城奪還計画は順調に進み、1537年(天文6年)6月に松平広忠は松平信定と和睦して岡崎城に復帰を果たしました。

織田氏に対抗するため妻子と離れる

今川義元

今川義元

岡崎城を取り返した松平広忠は、12歳で元服して正式に松平宗家の家督を継承します。晴れて8代目当主となった松平広忠ですが、当然、勢力を拡大し続ける織田氏に対抗するほどの統制力も軍事力も持ち合わせていません。

そのため、駿河・遠江国(現在の静岡県中部・西部)の「今川義元」(いまがわよしもと)を頼る他なく、松平広忠は仕方なく今川家臣となりました。

1541年(天文10年)、16歳の松平広忠は尾張国「緒川城」(おがわじょう:愛知県知多郡東浦町)を拠点とする「水野忠政」(みずのただまさ)の娘・於大の方(おだいのかた)を娶ります。

これは今川氏との結束を固めるための政略結婚で、一説によると松平広忠の岡崎奪還にも協力した叔父「松平信孝」(まつだいらのぶたか)の意向だったと言われています。そして、この翌年の1542年(天文11年)に竹千代(徳川家康)が誕生しました。

しかし、松平広忠は松平宗家で権力を持っていた叔父・松平信孝の台頭を恐れ、岡崎奪還の恩も忘れて一方的に追放してしまいます。甥に裏切られた松平信孝は、織田信秀方に与して、松平広忠との戦いを決意します。

こうした流れのなかで、松平信孝と親交の深い水野家との関係を保つことが難しくなり、1548年(天文17年)に松平広忠は於大の方と離縁することとなったのです。そのあと、岡崎城攻略に差し迫る織田信秀に対し孤軍奮闘していた松平広忠は、再び今川義元に援軍を要請します。

このとき、今川義元から援軍を送る代わりに人質を要求され、松平広忠は6歳になる竹千代を人質とすることを誓いました。松平宗家当主としての立場や領土を守るために、松平広忠は妻と息子を手放さざるを得なかったのでしょう。そして、竹千代は移送中に今川氏を裏切った家臣達によって拉致され、織田信秀のもとに渡ってしまうのです。

父と同じく非業の死を遂げる

徳川家康と松平8代の墓

徳川家康と松平8代の墓

竹千代を拉致した織田信秀は、今川氏と決別して織田方に与するよう松平広忠に使者を送って伝えます。しかし、松平広忠は「例え竹千代が殺されても、今川氏を裏切ることはない」と断言し、織田信秀との対決の道を選ぶことに。

そのあとも、今川氏から支援を受けながら織田軍の侵攻を防いでいましたが、松平広忠は岡崎城内で思いもよらぬ最期を迎えます。竹千代が織田氏の人質となって3年目の1549年(天文18年)、松平広忠は近臣の「岩松八弥」(いわまつはちや)に突然殺害されてしまいます。

岩松八弥は織田方が送った刺客であり、信頼させて側近になったところを狙って暗殺させたのです。しかし、松平広忠の横死に関しては、史料によって記述が異なり、現在も様々な説が語られています。

三河物語などでは病死ともされており、松平広忠の死はいまだ謎に包まれているのです。かくして、松平広忠は志半ばで、父である松平清康と同様に24歳という若さで亡くなりました。

そして、この混乱に乗じて今川義元は岡崎城を手中に収め、織田信秀の長男「織田信広」(おだのぶひろ)を捕らえて、竹千代との人質交換を成立させます。こうして、母と生き別れ、父をも失った竹千代は、今川氏のもとで成長していったのです。

松平広忠の墓石がある岡崎の寺院

松平広忠は死後、松平家の菩提寺である「大樹寺」(だいじゅじ)に葬られ、墓所が造られました。大樹寺は、安祥松平家初代当主「松平親忠」(まつだいらちかただ)が1475年(文明7年)に建立した寺院で、歴代当主がこの地に眠っています。

江戸幕府開府後に大樹寺の墓地は再興され、松平広忠を含む先祖8代の墓が再建されました。松平広忠の墓石の隣には、徳川家康の墓石が建てられています。

また、現在岡崎市内には松平広忠の墓所が全部で5つあり、大樹寺の他に「大林寺」(だいりんじ:岡崎市魚町)、「松應寺」(しょうおうじ:岡崎市松本町)、「法蔵寺」(ほうぞうじ:岡崎市本宿町)、「広忠寺」(こうちゅうじ:岡崎市桑谷町)といった寺院でも菩提が弔われています。