y-history.net

黒人奴隷/奴隷貿易/黒人奴隷制度/大西洋奴隷貿易

  • ️Thu Jun 21 2018

アメリカ独立宣言の矛盾

 1776年、アメリカ合衆国独立宣言は、その冒頭に、「すべての人は平等に造られ」ており、譲ることのできない「生命、自由、そして幸福の追求」を権利として与えられていると述べた。しかし、この「すべての人」の中には黒人奴隷(そしてインディアン)は含まれていなかった。それどころか、独立戦争の指導者ワシントンジェファソンら自身が自分の農園では黒人奴隷を使役していた。

アメリカ合衆国憲法の規定

 1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法(88年発効)には1808年までの奴隷貿易の禁止は盛り込まれたが、黒人奴隷制度そのものの廃止(奴隷の解放)は規定されておらず、権利は認められなかった。南部プランテーションでは黒人奴隷労働が不可欠と考えられていたからだった。
5分の3条項 なお、彼らの憲法上の根拠は、アメリカ合衆国憲法の第1条第2節第3項で、黒人とインディアンは「その他全ての人々」という表現のもとに、下院議員の選出と直接税の改税基準において白人一人に対して5分の3人と数えられ(いわゆる5分の3条項)ており、また第1条9節1項には「入国を適当と認められる人々の移住および輸入」という言葉があり、黒人奴隷貿易は廃止が予定される1808年まで公認されている、というものであった。

奴隷貿易の禁止

 黒人を所有する大農園主であったワシントンやジェファソンも、早くから奴隷制は害悪であると考えていた。またキリスト教の人道的見地から黒人奴隷を解放すべきであるという声は独立前から特に北部では盛んだったので、奴隷貿易禁止については憲法制定後20年間の猶予するとされ、ジェファソン大統領の時、1808年に実現した。しかしこれは奴隷貿易の禁止であり、奴隷制そのものの廃止ではなく、アフリカから新たに奴隷を連れてくることは公式にはできなくなったが、今いる奴隷はそのままであり、売買も認められた。また南部では依然として黒人奴隷の需要が大きかったので、スペイン船などによる黒人奴隷の密貿易が後を絶たなかった。

奴隷州と自由州

 独立後、北部諸州では奴隷制廃止が次々と実現し1819年には22州のうち北部11州が「自由州」となったが、南部11州は奴隷制度を認める奴隷州であった。人口の増加とアメリカ合衆国の拡大に伴い、新たな州(男性の人口6万で準州から州に昇格する)ができると自由州か奴隷州かいずれにするかが問題となった。1820年、ミズーリ州が奴隷州として合衆国に加盟したとき、北部のマサチューセッツ州からメイン州を分離して自由州を増やし、同時に北緯36度30分以北には新たな奴隷州を造らないというミズーリ協定といわれる妥協が成立した。

奴隷制反対運動

 植民地時代からクウェーカー教徒らによるキリスト教的な人道主義の見地からの奴隷制廃止運動があったが、運動は次第に漸進的、人道的なものより、急進的、政治的なものに転換し、1833年に北部の白人の奴隷制廃止論者が即時廃止を主張する「アメリカ奴隷制反対協会」が結成された。資本主義の発展にとって必要な国内の労働力して黒人奴隷の解放を期待する面もあった。1830年代からは黒人奴隷で逃亡し、自由を求めて北部の自由州に逃れるものも多くなり、また自由黒人と白人の中に奴隷解放運動も活発になった。1838年にメリーランドから脱走しマサチューセッツ州に逃れ、そこで奴隷解放運動に加わったフレデリック=ダグラスはその一人であった。また、南部の黒人の逃亡を助ける組織も秘かに作られた。

Episode アミスタッド号事件

 アメリカが黒人奴隷制問題で国論が二分されていた1839年8月、コネティカットの海岸に一艘の船が漂着、41人の黒人がとらえられた。船はアミスタッド(スペイン語で友愛の意味)号というスペイン船であったが、この黒人の扱いを巡る裁判はアメリカで大きな注目を浴びることとなった。スペインの船主はこの黒人はキューバ生まれで正当な手続きで購入した財産だから返還してほしいと要求した。しかし真相は彼らはアフリカのシェラレオネから奴隷密貿易船で運ばれてきた人々だった。途中で反乱を起こし船を奪ったが、航路がわからず北米海岸に漂着したのだった。裁判の結果、スペイン側の主張は退けられ、シンケと呼ばれた青年をリーダーとした黒人たちはアフリカに送還されることになり、正義は守られた形となった。この事件を描いたのがスピルバーク監督の映画「アミスタッド」である。 → 19世紀の中間航路

黒人奴隷の逃亡を助ける地下鉄道

 黒人奴隷の逃亡を助ける奴隷制廃止論者(アボリショニスト)は、「地下鉄道」(アンダーグラウンド・レイルロード)といわれる非合法組織を作った。その組織で「停車場」というのは逃亡奴隷が一夜の宿を取るところであり、「終着駅」は奴隷制度のない北部か、カナダであった。彼らの輸送には「車掌」がつき、勇敢な指揮官に導かれて北極星を頼りに北への長い旅を続けた。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新編』岩波新書 p.90 1991>
ハリエット=タブマン メリーランド州の女性奴隷ハリエット=タブマンは、1848年に一人で脱走し、フィラデルフィアに逃れ、その地で地下鉄道運動に加わり、自ら「車掌」の役割、つまり案内役を務めて、その後何十人もの奴隷を北部に導き“モーゼ”と言われた。奴隷の逃亡に手を焼いた白人プランターが連邦政府を動かし、1850年に逃亡奴隷法が制定され逃亡奴隷は逮捕されると奴隷主のもとに引き戻されることになったので、タブマンたちの地下鉄道の行き先は奴隷制のないカナダまで延長されることになった。

南部諸州の主張

 しかし、19世紀の中頃、イギリス向けの綿花生産が増大するに従い、南部の綿花プランテーションは経営者(プランター)は、黒人奴隷労働力が不可欠であったので、その存続を強く主張するようになった。こうして奴隷制問題は誕生間もないアメリカ合衆国にとっての深刻な対立軸となっていった。学者の中にはギリシアのアリストテレスも奴隷制を認めていたとか、南部の黒人奴隷の方が北部のいつ首を切られるかわからない賃金労働者よりも生活が安定しているなどと奴隷制を正当化する主張もあった。また、プランター主は密貿易による新たな奴隷供給が困難になると、奴隷同士を結婚させて子どもを産ませ、それを売り払った資金で耕地をひろげていくようになり、黒人奴隷は財産としてますます重要になっていった。

1850年の妥協

 その後も南北の奴隷制を巡る議論は対立の度合いを深めていった。1848年のアメリカ=メキシコ戦争でメキシコから獲得した地域を自由州とするか奴隷州とするかでも激しく議論されたが、結局1850年9月に「1850年の妥協」が成立し、カリフォルニアは自由州と認められたが、ユタとニューメキシコは住民投票で決めるという「住民主権」の考えが採用された。また首都のワシントンDCでは奴隷売買を禁止する代わりに、奴隷の自由州への逃亡を取り締まる逃亡奴隷法が制定された。ストウ夫人は逃亡奴隷法に反対し、1852年3月に『アンクル=トムの小屋』を発表し、大きな反響を呼んだ。

カンザス・ネブラスカ法

 住民投票で決するというやり方は1854年のカンザス・ネブラスカ法でも採用され、北緯北緯36度30分よりも北にあるカンザスとネブラスカが自由州か奴隷州かの選択は住民投票で決することとなり、ミズーリ協定は破棄された。これに対して北部の奴隷制拡大反対論者は強く反発し、同じ1854年に共和党を結成した。民主党も同法に反対するメンバーが脱退し分裂した。

南北戦争への道

 さらにひとりの黒人奴隷が解放を訴えた、1857年のドレッド=スコット判決では、最高裁判所の判断は、黒人奴隷は財産であり、財産は憲法修正第5条のいわゆる権利宣言で適正な手続き(デュー・プロセス)がなされないかぎり侵害されないのだから、連邦政府は奴隷解放を命令することはできない、というものであった。そのような強固な奴隷制擁護の壁に対して、白人の中でも実力で奴隷解放を主張する人々が現れ、その中のには1859年の「ジョン=ブラウンの蜂起」のような事件も起こった。

ジョン=ブラウンの蜂起

 白人の黒人奴隷制廃止論者ジョン=ブラウンは、1859年10月、ヴァージニア州の連邦武器庫ハーパーズフェリーを襲撃した。ブラウンは自分の息子三人を含む、白人と黒人あわせて22人からなる小人数で、この地を二日間にわたって占領した。

(引用)彼は、自分たちのこの壮挙が奴隷暴動の狼煙となって、全南部の奴隷がいっせいに蜂起することを期待していたのである。しかし、そのことにかんするかぎり、彼の計画は失敗に帰した。・・・・彼の二人の息子は戦死し、ブラウン自身も重傷を負って捕えられた。結局、彼の蜂起は失敗した・・・北部の各地で大衆的な追悼集会が開催され、ソローやエマソンやホイッティアなどの著名な知識人も心からブラウンの死を悼んだが、フランスの作家のヴィクトル・ユゴーが「奴隷制度は如何なるものも消滅する。南部が殺害したのは、ジョン・ブラウンではなくて奴隷制度であった」と、いみじくも予言したように、それから一年数カ月後には、北部の農民や労働者たちは、「ジョン・ブラウンの遺骸は墓の下に朽ちるとも、彼の魂は進軍する」と歌いながら、大挙して奴隷制打倒の戦争に立ち上がっていたのである。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書 p.95>

南北戦争

 

アメリカ合衆国北部では次第に、黒人奴隷制に対する非難が高まっていった。それとともに経済政策・貿易政策でも南北の対立は深まってゆき、1860年の大統領選挙で奴隷制拡大反対を掲げた共和党リンカンが当選すると、南部諸州が反発し合衆国から分離しててアメリカ連合国を作り、ついに1861年南北戦争が勃発した。リンカン自身は奴隷制廃止論者ではなく、奴隷制の拡大に反対したのであり、南部諸州の奴隷制は容認していた。南部との戦争を決意したのは、奴隷解放のための戦いとしてではなく、分離独立を阻止するためであった。

奴隷解放宣言

 戦局が南部有利に進む中、リンカンは大きな転換を試みた。それが1863年1月1日の奴隷解放宣言であった。これによってリンカンの戦いは奴隷解放を目ざすという大義名分が与えられ、それまで南部支持に傾いていたイギリス・フランスの国際世論も一挙にリンカン支持に転じた。奴隷解放宣言による国際世論の支持とホームステッド法による西部農民の支持によって南北戦争はリンカンの率いる北軍の勝利として終わった。 → イギリスの奴隷制度廃止