三国同盟
1882年に成立したドイツ・オーストリア・イタリア三国の秘密軍事同盟。当初はビスマルクの構想したフランス孤立化のためであったが、次第にロシア、イギリスに対抗する意図が強くなった。三国協商(英・仏・露)との間で第一次世界大戦に突入するが、イタリアは離脱した。
三国同盟の諷刺画 ビスマルクを仲の悪い姉妹を和解させる家庭教師に見てている。
ドイツ帝国のビスマルクは、普仏戦争(1870年)後にフランスが再建され、復讐心に燃えて再びドイツに向かってくることを最も警戒していた。そのために背後を固める意味から、ロシアとオーストリアに働きかけて1873年に三帝同盟を結成した。露土戦争(1877年)の後のバルカン問題でオーストリアとロシアの対立が表面化し、イギリスもまたロシアの南下に反発したので、ビスマルクは調停に乗り出し、ベルリン会議(1878年)を開催した。その結果、ベルリン条約が成立したが、その内容はオーストリア・イギリス寄りであると不満を持ったロシアは、1879年に三帝同盟から離脱してしまった。ロシアとの同盟維持を最も重視していたビスマルクは窮地に陥り、同年、オーストリア=ハンガリー帝国との独墺同盟を結び、フランスとロシアに互いに備える手を打った。
一方、フランスは、ベルリン会議の結果としてベルリン条約で、イギリスのエジプト侵出を認める代わりにチュニジア侵出を認めてもらい、1881年にチュニスに出兵してチュニジア保護国化を強行した。それに対してイタリアは自国の対岸にフランスが進出したことに反発し、「未回収のイタリア」問題での敵対関係をいったん棚に上げてオーストリア=ハンガリー帝国に近づいた。
独・墺・伊の三国秘密軍事同盟
そのような情勢を見たビスマルクはオーストリア(正確にはオーストリア=ハンガリー帝国)、イタリア王国に働きかけ1882年に三国同盟が形成された。それは、フランスをこの三国に共通する仮想敵国とする秘密軍事同盟であった。
同時にビスマルクはロシアとの関係を修復し、同盟関係の再構築を熱心に働きかけ、1881年に三帝同盟を復活させ、新三帝同盟を結成した。これは前の三帝同盟と異なり、軍事協力を約束する軍事同盟だった。これによって三国同盟と新三帝同盟の二重の同盟関係でドイツの安全保障を万全のものとするというビスマルクの構想が実現したが、ロシアとオーストリアの関係は早くもバルカン問題が再燃したために決裂、1887年、ブルガリア問題が起こると、新三帝同盟が消滅してしまった。ビスマルクはなおもロシアとの提携を追求し、1887年には、ドイツ・ロシア間で再保障条約を締結した。
ビスマルク外交からの転換
このように一貫してロシアとの提携を軸に巧妙なビスマルク外交を展開したが、1888年即位した新皇帝ヴィルヘルム2世は、ビスマルク外交を否定したため、1890年にビスマルクが辞任に追い込まれると、独露再保障条約は延長されず消滅した。それによってビスマルクが最も警戒したロシアとフランスとの提携が現実のものとなり、1891年~1904年に段階的に露仏同盟が成立する。
三国協商の成立
また、20世紀に入るとイギリスはドイツの海外進出を警戒、フランス及びロシアとの相互の勢力圏を認める世界分割協定を重ねて個別に協商関係を結び、1904年の英仏協商、1907年の英露協商を成立させた。これによって、イギリス・フランス・ロシアの三国協商が成立すると、三国同盟がその対抗勢力と位置づけられるようになった。それによってこの二大陣営のバランスによって勢力均衡を図るという20世紀初頭の国際関係が成立したが、やがてバルカンにおけるロシアとオーストリアの対立は、民族主義者が放った一発から火がつき、第一次世界大戦へと転化していくこととなる。
イタリアの離脱
このときすでに三国同盟は機能を失っていた。同じゲルマン人国家であり、パン=ゲルマン主義にたつドイツとオーストリアは同盟国として結束したが、イタリアは、「未回収のイタリア」問題でオーストリアと対立していたので、三国同盟がありながらドイツ・オーストリア側に加わらなかった。オーストリアがセルビアに宣戦したことは、三国同盟の同盟義務発動条件である他国からの攻撃に対する防衛には該当しないという理由で参戦できないと通告、かわりに領土的割譲要求に応じることを条件として提示したが、オーストリア側はそれを拒否した。そこにつけ込んだイギリスは、1915年4月にイタリアとのロンドン秘密条約を結び、戦後の未回収のイタリアをイタリアが領有することを認めることを条件に、三国同盟を離脱して連合国(協商国)に立つことを密約した。
三国同盟と三国協商の二極分裂を重視はできない
20世紀に入り、列強体制は三国同盟ドイツ・オーストリア・イタリアと三国協商イギリス・フランス・ロシアの二極化の傾向を強めたことは確かだが、あたかも二つの固定化した陣営の対峙が第一次世界大戦をもたらしたと見るのは誤っている。この二極化を過度に強調するのは、第二次世界大戦後の冷戦時代の、東西陣営の対立という国際関係に影響された解釈ではないのか、という批判も起こっている。同盟・協商はぞれぞれ成立した時期や目的にかなり違いがあり、同盟・協商を構成する三国も、一枚岩のような強固な結束とはほど遠かった。
三国同盟は1880年代に起源を持つビスマルク体制の産物で、その目的はフランスのドイツへの報復行為を阻止することにあり、防衛的・保守的性格の連携であった。しかもイタリアとオーストリアの間には、オーストリア領のトリエステなどの「未回収のイタリア」をめぐる領土対立がくすぶっていて、同盟の結束力は脆弱であった。20世紀に入ると、三国同盟は実質的にドイツ・オーストリアの二国だけの中欧同盟に変質し、ドイツは事実上唯一の同盟国となったオーストリアの列強としての地位を守ることを、死活の問題と考えるようになった。
一方、三国協商は、20世紀に入ってイギリスとフランス間の北アフリカでの、またイギリスとロシアの間の西アジアでの、それぞれの植民地・勢力圏の相互承認であり、特に三国同盟との対決を意図したものではなかった。1900年代半ばまで、ファショダ事件や日露戦争が示すように、列強間の軍事衝突は、アジアやアフリカでのイギリスとフランス、イギリスとロシアの間でのそれが危惧されていたのである。<木村靖二『第一次世界大戦』2014 ちくま新書 p.37>
史料 三国同盟条約 1882年5月20日
ドイツ皇帝プロイセン国王陛下、オーストリア皇帝・・・ハンガリー国王陛下、イタリア国王陛下は、一般的平和の安全を増進し、君主主義的原理を強化し、それによって各国における社会的および政治的秩序の完全な維持を確保したいとの願いから、本条約を結ぶことに同意した。(中略)
第一条 締約国は、平和と友好を相互に約束し、それら諸国の一つに向けられた同盟または義務には入らない。締約国は、生じうる一般的性質の政治的経済的問題に関して意見交換する義務を負い、さらに締約国自身の利益に応じて相互援助を約束する。
第二条 イタリアが、イタリア側の直接の挑発なくして、何らかの理由によってフランスから攻撃を受けた場合には、他の二締約国は、攻撃された方を全力で援助しなければ名ならい。直接的な挑発がないにもかかわらずフランスがドイツに対して攻撃を行った場合には、イタリアはこれと同じ義務を負わなければならない。
第三条 締約国の一もしくは二がそれらの側の直接的な挑発なくして攻撃され、また本条約を調印していない二つもしくはそれ以上の大国との戦争に巻き込まれたという場合には、すべての締約国には同時にいわゆる「条約該当事由 casus foederis 」が生じる。
第四条 本条約を調印していない大国が締約国の一国の安全を脅かし、またそのために脅威を受けた側がそれと戦争することを余儀なくされた場合には、他の二国は、その同盟国に対して好意的中立を守る義務を負う。この場合、それぞれは、その同盟国と協力することを適切であると見なすならば、参戦する権利を保持する。
第五条 締約国の一国の平和が前記条項において予想された事情のもとで脅かされた場合には、締約国は、万一の協力を顧慮してとられる軍事的措置について時機を失することなく了解し合うものとする。締約国は、今後共同して参戦するすべての場合には、相互の共通の合意に基づいてのみ休戦や講和、もしくは条約を締結する義務を負う。
第六条 締約国は、本条約の内容とその存在を秘密にしておくことを相互に約束する。
第七条 本条約は、批准を取り交わした日から五年間効力を有する。
<歴史学研究会『世界史史料集6』p.281 伊藤定良訳>
第一次世界大戦の開戦
1914年6月28日のサライェヴォ事件を受けて、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世は1914年7月28日にセルビアに宣戦布告した。この時点では、各国はこの紛争はオーストリアとセルビア二国間の紛争の終わり、世界戦争に発展するとはだれも想定していなかった。
世界戦争への拡大 しかし、オーストリアは宣戦布告の前にドイツ帝国のヴィルヘルム2世に打診しており、それに対してヴィルヘルム2世は「同盟義務」に忠実に、つまり同盟国の一国が攻撃されたら他の二国は軍事行動も含めて支援するという条約該当事由が生じるという規定に従い、支援を約束した。しかし、セルビアが謝罪しオーストリアが受け入れることを期待し、自ら参戦するつもりはなかった。最も心配したロシア帝国のニコライ2世の動向だった。ロシアはもしセルビアとオーストリアが戦ったらセルビアは敗北し、それはバルカンにおけるロシアの影響力を弱めることになると警戒し、オーストリアの宣戦布告に対応して7月30日、総動員令を発令した。ドイツは総動員令撤回を要求したが応じないため、ロシアとオーストリアの開戦と判断して、8月1日、同じく総動員令を発しロシアに宣戦布告した。するとフランスも露仏同盟に従って動員を開始、ドイツは3日、フランスにも宣戦した。イギリスは当初不干渉が多数派であったが、大陸でのドイツ帝国のヘゲモニーがベルギーに及ぶことを警戒、4日に宣戦した。イタリアは上述の通り、オーストリアの宣戦布告は三国同盟義務の発動条件には合わないとして支持せず、領土割譲を条件を持ち出して支援を匂わせたがそれが拒否されたので、中立の立場を表明し、事実上暖国同盟から離脱した。
秘密軍事同盟体制の否定
三国同盟は第一次世界大戦勃発の32年前、1882年に締結された条約なので、直接的に戦争の要因となったわけではないが、逆に言うとビスマルクの想定した列強の秘密軍事同盟によって世界の秩序を維持し、戦争を抑止しようという構想も、失敗に終わった、と言うことであろう。そして、小さなトラブルを二国間交渉で解決しようとする手法は、この三国同盟、そして三国協商があったために、次々と同盟義務に縛られて連鎖的に参戦せざるを得なくなり、結局世界大戦をもたらししてしまった。
集団的自衛権から集団安全保障の理念へ その結果、人類は最初の世界戦争の惨禍を味わうこととなった。当然、三国同盟・三国協商といった軍事同盟・勢力分割協定によってバランスをとることで世界を安定させようというビスマルク体制が、世界戦争を抑止できず、むしろその要因の一つとなったことを踏まえ、個別軍事同盟による集団的自衛権の理念を捨て、集団安全保障(それを具現化する国際機関として国際連盟の発足)をあたらな理念として取り組まれるようになった。現在も集団的自衛権を主権国家の当然の権利のように主張する(国際連合憲章51条で認められていることを根拠に)勢力があるが、これはまさに19世紀のビスマルク時代の発想であり、第一次世界大戦の勃発で否定されている。もちろんその後の歩みは順当ではなかったが、ファシズムと軍国主義の時代を経て、第二次世界大戦の国際社会では集団安全保障の理念が構築されていることを忘れないようにしよう。
秘密外交の禁止 また三国同盟に典型的に見られる秘密軍事同盟の存在は、当たり前のようにその存在を肯定していた国際社会が、第一次世界大戦中のウィルソンアメリカ大統領の十四カ条、ロシア革命でのレーニンの平和についての布告によって、秘密外交の禁止が提唱され、現在では少なくとも「開かれた」国際社会においてはあり得ないものとなった。