ネパール
ネパール
ヒマラヤ山脈の高地にある小国。インド文明の影響下にありヒンドゥー教徒が多い。王政国家であったが、1995年ごろから毛派が台頭、2008年に王政が廃止され、共和政となった。
ネパールは北はヒマラヤ山脈を境に中華人民共和国チベット自治区に接し、南と西と東はインドに接する。面積14.7万平方km(北海道の1.8倍)、人口は約2500万。首都はカトマンズ(カトマンドゥ)。言語はネパール語、宗教はほとんどがヒンドゥー教であるが、民族的には多民族国家で、様々な民族から構成されている。パルバテ=ヒンドゥー(山地のヒンドゥーの意味)といわれるインド=ヨーロッパ語族が半数を占めるが、南部の平原部にはインド人も多い。インドとは異なるカーストが現在でも根強い。
ネパールの歴史
南ネパールのカピラヴァストゥはシャカ(ガウタマ=シッダールタ)の
生誕の地であるルンビニーとされている。マウリヤ朝時代にはアショーカ王の支配に入っていた。4世紀頃からチベットとの関係も強くなり、その後いくつかの王朝が交替した後、1769年にカトマンズを制圧したシャハ王朝(グルカ王朝とも言う)がほぼ現在のネパールと同じ領土を統一支配するようになった。イギリスの保護国へ
インドの植民地化を進めたイギリスとの間で、1814年~16年のグルカ戦争(ネパール=イギリス戦争)を戦って敗れ、領土を割譲し、実質的な保護国となり、グルカ兵と言われるネパール兵をイギリスおよびインドに提供することとなる。グルカ兵はその後、イギリスのインド支配の戦力として重要な役割を担い、勇猛を持って知られるようになる。ネパール王国

毛派の台頭
1995年、王制打倒と人民共和制の樹立を掲げるネパール共産党毛沢東主義派(毛派、マオウイストという)が結成され、翌年から武装闘争を開始し、ネパールは内戦状態となった。毛派の台頭の背景には、長くつづく王政と封建制の下で、農村部の貧困がますます深刻になってきたことがあげられる。王宮での王族殺害 2001年には王家の内紛から宮廷内での王族殺害事件が起き、ギャネンドラが新国王となるが、急速に求心力を失い、毛派が優勢となる。
王政の廃止
2005年、国王が議会・政党を解散させ絶対王政を宣言すると、議会派と毛派が共闘して反国王の連合を形成し、2006年ゼネストを決行して、国王は民政復帰を表明。ネパール会議派が率いる新政権が成立し、毛派との間で和平協定を締結。同年11月に国軍と毛派の内戦が終結した。その間、ヒンドゥー教の国教廃止、その他の民主化が図られ、2008年5月に国王が退位し、ネパールは連邦制の民主共和国となった。 2008年4月の制憲議会選挙で毛派が第一党となり、毛派を中心とする連立政権が誕生。しかし2009年になって毛派出身の大統領とネパール国軍が対立したため連立政権が崩壊、その後も混乱がつづいている。